で、店のいちばん奥、カウンター席に着いてる天使様からは ちょっと死角になってるテーブル席の方に、私は移動したの。
私はてっきり、『余計なことは言うな』って、口止めされるんだろうと思ってたんだけど。
私を呼びつけた氷河は、瞬の目と耳を気にしながら、小声で、
「頼む。帰ってくれ」
って、文字通り、私に頼んできた。
「瞬は、本当に 時々しか来てくれなくて、二人きりになれる機会は少ないんだ。頼むから、今日は帰ってくれ」
って。
しかも。しかもよ。
あの、いつも素っ気なくて不遜な氷河が、なんと 私に頭を下げてきた!

私、びっくりしたわよ。
きっちり30秒、本気で声を失ったわね。
で、その驚愕から 何とか立ち直った私は、意地悪な気持ちも、氷河の正体を暴いてやろうって気持ちもなく、全く毒気の抜けた状態で、氷河に、
「氷河は、あの子――瞬さんが好きなの?」
って、訊いたの。
氷河は、
「俺は瞬を愛している。俺の命より」
って、答えてきた。
いつも凍った海みたいな青色をしていた氷河の瞳が、今は とても深くて――私は“びっくり”を通り越して、ソーダの抜けたカンパリソーダみたいになった。
で、ソーダが抜けたら、いろんなことが見えてきた。

氷河はあの子 ――瞬さんに本気で恋をしてるんだ。
命がけで――ううん、“俺の命”より。
一緒にいられない時も、氷河は、瞬さんのことを思ってる。
だから 彼は色気だだ洩れで、だから、他の女は 顔も覚えられない。
“俺の命”より愛してる。
今のところは片思い。
氷河は まさに、ただ一人の人を自分の すべてをかけて愛している。

そして、女ってのは、そういう一途な男を好きなもの。
この店に列を()してる女の子たちは、氷河の心身から あふれ出る瞬さんへの思いが 自分に向けられてるように錯覚するっていうか、自分に向けられてほしいと 願ってしまうっていうか。
とにかく、彼女等は氷河が一途で情熱的な男だってことを感じ取れるのよ。
女の勘ってやつかしら。
で、この人に愛してもらえたら、自分は どんなに幸福な恋人になれるだろうって、夢を見る。
氷河は、女にとって、安全で危険な男。
女の理想そのもの。
ただし、氷河の一途も、氷河の情熱も、すべては 瞬――瞬さん一人に向けられてるものだけど。

「帰ってあげるわ」
私、そう言うしかなかった――そう言ってあげるしかなかった。
「恩に着る」
氷河は、九死に一生を得たみたいな目と声を 私に投げてきて――いかに私が邪魔者だったのかを、私に思い知らせてくれた。
それは そうでしょうけど、ほんと、この男はモブキャラに気を遣えない無神経な男ね。
おかげで、私は、何か代償を手に入れなきゃ 気が治まらなくなるじゃないの。

「ただし、条件が一つ」
「何だ。俺にできることなら、何でもする」
はいはい。モブキャラには安請け合い。
本当に仕様のない男だわ。
「私の名前は、佐藤サヤカ。名前と顔を覚えて」
氷河は――もしかしたら氷河は、別に安請け合いをしたわけじゃなかったのかもしれない。
瞬さんと二人きりになるためになら、本気で何でもする気でいたのかもしれない。
氷河は、私の求めに応じて、私の顔を じっと見詰め、
「覚えた」
と言った。

しかし、改めて見ると、本当に綺麗な男よね。
こんな男に片思いさせてる瞬さんは偉大だわ。
あんな、虫も殺せないような顔してるのに。
ああ、でも、いくら綺麗でも、所詮 氷河は人間の男。
天使様には、跪くしかないか。
天使様は、善良で優しくて、表情がやわらかで、全く害がなさそうなのに、一度 魅入られてしまったら一巻の終わり。
氷河には、ご愁傷様と言うしかない。

「氷河、どうしたの」
内緒話が長すぎたのか、瞬さんが カウンター席から声をかけてくる。
氷河は、私に軽く頭を下げて、瞬さんのいる方に歩き出した。
「いや、彼女が急用があるから 帰るというんだ。引き止めようとしたんだが」
よくまあ、すっとぼけた顔でそんな嘘がつけること。
嘘つきなんて最低だって思うけど、それもこれも瞬さんのためなんだと思うと、健気に感じられて、怒れなくなる。
まるで 悪さをしたことを先生に隠そうとしてる小学生みたい。
このクールビューティーの内幕がこんなだなんて、氷河に群がる女の子たちが知ったら どう思うことか。

「無理を言っちゃ 駄目だよ」
「ああ」
氷河が、先生の指導に素直に頷く。
相手は 憧れの先生。
殊勝な態度は当然よね。

「僕の知らない氷河が どんなふうなのか、ゆっくり お話を伺いたかったんですけど……。これからも、このお店にいらしてくださいね。氷河は寂しがりやなの。一人でいると、本当に しょんぼりしちゃうから」
それが瞬さんの目に見えてる氷河の姿ってわけ?
寂しがりや――寂しがりやね。
たった一人の人を待ち続けている寂しがりやかあ。
ふん。可愛いじゃないの。

「ええ」
私が何か余計なことを言うんじゃないかと、氷河は内心 はらはらしてたらしい。
あっさり首肯した私を見て、氷河は ほっとしたような顔になった。
そして、口裏を合わせてやった私への感謝の目配せを送ってくる。
天使様に隠れて、人間同士で内緒のやり取りってのも、悪くはないわね。
それにしても、この二人が並ぶと壮観。
そこだけ異次元って感じ。
昔、中学生の頃、某有名女流作家の作品で、究極の美女を人工的に作り続けている組織が出てくるSF小説を読んだことがあるけど、自然が この二人を作って、運命が この二人を出会わせたっていうなら、それこそ 奇跡。
“事実は小説より奇なり”だわ。

私はカウンター席には戻らず、声には出さず、唇だけで、『 Good Luck 』と 氷河に告げた。
英語が苦手なはずの氷河が、それを しっかり読み取って、
「ありがとう」
と、日本語で答えてくる。
『ありがとう』だって、氷河が。
『いらっしゃいませ』も『ありがとうございました』も『また お越しください』も言ったこともない男が、『あなたの恋がうまくいくように』には『ありがとう』。
『ありがとう』と『ごめんなさい』はね、言えない人間には どうしても言えない言葉なのよ。
その二つの言葉が言えないせいで破綻してしまった恋人たちや夫婦を、私は これまで何十組も見てきた。
一筋縄ではいかない男のくせして、氷河は存外 素直な男なのかもしれない。
今朝までの私なら絶対に考えなかっただろう、そんなことを考えながら、私は氷河の店を出たの。

いつのまにか、外は すっかり日が暮れてた。
夜気が冷たい。
でも、私は、なかなか素敵な秘密を手に入れたばかりで、ちょっと興奮気味だったから、私の守護神、探偵業の神様に胸中で『ありがとう』って呟いて、馬鹿みたいに元気に大通りに向かって歩き出したのよ。






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