- 第二幕 -






広い院庭は、入院患者のみならず、その付き添いや見舞客、外来患者たちも、外の空気や自然に接することで、心身をリフレッシュさせ、何かと不安や気掛かりの多い者たちの心が安寧を得る一助となるよう設けられたもの。
外来診療の時間は過ぎているので 人影はまばらだが、日暮れ前の静かな ひとときを楽しむ入院患者たちの姿が 庭のあちこちにある。
車椅子で歩道を散策する青年、ベンチに腰掛けてオレンジ色に染まった空を眺めている老人、芝生の上を裸足で歩いている子供。
そこにあるのは、いつも通りの平穏な時間だった。

瞬は本当は今日は休暇をとっているはずだったのだが、朝一番で病院から同僚医師の体調不良の連絡を受けて出勤、結局 通常日通りに患者の相手をすることになってしまった。
この手の緊急コールさえなければ、もっと氷河と共に過ごす時間を持てるのに。
『もう少し、俺の側にいてくれ』と、言葉にはせず 眼差しで訴えていた昨夜の氷河の冷たく熱い青い瞳を思い出し、瞬は小さな吐息を洩らした。
今日の出勤の振り替えで 明日は休日になったことだし、一度 帰宅してから氷河の店に行こうか――。
そんなことを考えながら、瞬は、外来棟から医局のある西棟に向かって歩いていた。

「せんせ。綺麗なせんせ」
そんなふうな考え事に気をとられていたせいもあったが、瞬は 最初 その声が自分を呼んでいるものだとは気付かずに その場を通り過ぎようとしたのである。
医局で雑務を済ませ、そのまま帰宅するつもりで、瞬は白衣を身につけていなかった。
そして、病院の職員や 顔見知りの患者でない限り、白衣をまとっていない瞬を医師と気付いてくれる人は稀だった。

「瞬せんせ、逃げないで。苦しんでる患者を見捨てるの」
「え」
名を呼ばれて、それが自分を呼ぶ声だということに気付く。
瞬は その場に立ち止まり、振り返り、およそ5歩分 後方にある院庭のベンチに腰掛けている人の上に視線を巡らせた。

20代半ばの女性。
胸まである漆黒のまっすぐな髪。
臙脂色のワンピースに白いレースのボレロ。
そして、ワンピースと同系の色をした唇と爪。
入院患者でないことは明白だった。
おそらく、見舞客でもない。

「僕でしょうか」
「他に綺麗なせんせなんていないでしょ」
そう言われて、瞬は律儀に周囲を見まわした。
広い院庭に、白衣を着た者の姿は一つもない。
「医師はいないようですが……。具合いが お悪いんですか」
場所にふわしい服装を身に着けてはおらず、あまり礼節を心得ている人間の言葉使いをしているわけでもないのに、なぜか軽率な印象を持てない。
かといって深刻なわけでもなく――瞬が彼女に最も強く感じたものは 慎重さだった。
はすっぱな口調。
しかし、彼女は 慎重に言葉を選んでいる――否、彼女の慎重さは、たとえば誰かに本を読み聞かせてやっている者のそれに似ていた。
だが、なぜ。

「患者っていうのは嘘。せんせに相談に乗ってほしくて。お忙しいかしら」
「いえ。今日はこれで帰ろうと思っていたところです。ですが、急病でもないのに、こんなところでカルテも作らず 病状を伺うような無責任は、医師として――」
『できることではないし、問題がある』と、瞬は言おうとした。
言いかけた言葉に、慎重な女性の、
「せんせ、ヴィディアムーの氷河とお友だちよね」
という問い掛けが かぶさってくる。
氷河と氷河の店の名を出され、瞬は戸惑った。
“氷河のお友だち”が この病院にいることを、氷河が余人に洩らすはずがない。

「氷河のお知り合い……ですか?」
「ええ。とても親しい――つもり」
慎重な女性が、慎重で意味ありげな視線を 瞬に投げてくる。
瞬は、そんな彼女に違和感を覚えた。
彼女は、確実に初対面の女性である。
一方的に距離を置いたところから姿を見られたことはあったのかもしれないが、これほど間近で言葉を交わすのは初めてのはず。
決して うぬぼれているわけではないのだが、初めて“瞬”と相対した人間は、10人中10人までが“瞬”の姿に何らかの衝撃を受け、何らかのリアクションを起こすのが常だった。――大抵は、美しい少女と誤解して。
観察眼の優れている人間なら、顔の造作に驚くだけでなく、瞳に息を呑む。
頭の回転が速い人間なら、すぐに“瞬”が男子なのか女子なのかを疑い始める。
瞬は そういう状況に慣れていたし、“特別な力”を持った者たちを除けば、そういう状況の現出に まず例外はなかった。
“特別な力”を持った者たちは、瞬の容貌より その力の質と大きさの方に驚き、怯むのだ。

しかし、この女性は特別な力を持つ者ではない。
そして、確実に自分とは初対面である。
にもかかわらず、いかなる動揺も見せない。
どういう条件下でなら こんな状況が起こり得るだろうかと、瞬は疑ったのである。
『彼女の視力に問題があるなら、あるいは』と考え、すぐに その考えを放棄する。
彼女の目が見えていないということは あり得なかった。

「氷河の お知り合いの方でしたか。氷河がどうか?」
「せんせと氷河、長い 付き合いだと聞いたわ。子供の頃からの親友」
慎重な女性が 礼節を心得ているとは言い難い はすっぱな口調で畳みかけるように話を進めていくのは、会話の主導権を自分が握っていたいから、らしい。
主導権を瞬に握られ、自分の話したいことを――あるいは、話さなければならないことを? ――話し損ねることを、彼女は恐れているのだ。
「ううん。親友とは言ってなかった。仲間だと言ってたわ」
「……」

そう。
氷河なら“親友”という言葉は使わないだろう。
氷河なら“仲間”と言う。
瞬自身も そうだった。
彼女が 氷河と“親しい知り合い”だというのは 事実なのかもしれない――と、瞬は思ったのである。
でなければ 彼女は、氷河について綿密な調査を行なったか、相当の期間に渡って氷河の観察を行ない、あの口数の少ない氷河が用いる語彙と口調を分析したのだ。
彼女は、そのどちらなのか。
親しい知り合いか、有能な検査官もしくは観察者なのか。
そもそも 彼女はなぜ 氷河を“親しい知り合い”だと言い、“友人”だと言わないのか――。
その事情を知るためには、彼女に 彼女の話したいことを――話さなければならないことを――すべて話してもらうのが、最も適切かつ効率的な対応だろう。
瞬は、彼女の仕事(?)の邪魔をしないために、自らの意見を口にすることを極力 控えることにした。

「私のために力を貸してくださらない?」
「僕にできることで、僕がしても問題のないことでしたら」
瞬の当たり障りのない返答を、彼女は喜んだ――らしい。
まるで交渉事で対手の言質を取った人間のように。
「私、氷河に捨てられそうなの」
慎重だった彼女の舌が なめらかになる。
「いいえ、捨てるも何もない。氷河は最初から遊びのつもりだったんだわ。一度だけの気まぐれだった。でも、私は本気だったのよ。本気なの」
「あの……」
まさか、彼女の言いたいこと――言わなければならないこと――が そんなことだったとは。
瞬は、本音を言えば、対処に迷った。
このまま話を続けさせるべきか、それとも やめさせた方がいいのかを。
――迷うだけ無駄だったが。
彼女は、それを話さなければならなかったのだ。

「氷河は、あの通り、冷たい男の振りをしてるけど、それは 人と深く関わるのを恐れているだけなのよ。誰かを深く愛するようになるのを恐れているだけ。ほんとは とても熱くて……情が深い。氷河の冷たさや素っ気なさは、むしろ氷河の優しさなの」
「え……ええ」
「ごめんなさい。そんなこと、あなたの方が よく ご存じよね。長い付き合いの親友――いいえ、仲間なんですもの」
その言葉を、彼女は他意なく言っているのか。
それとも、それは皮肉なのか、あるいは、“長い付き合いの氷河の仲間”に対する挑戦の言葉なのか。
瞬は、彼女の真意を確かめることはできなかった。

「私は、本当の氷河を知っている。本当の氷河を愛してる。私は、あの孤独で臆病な魂を抱きしめて、温めてあげたいの。氷河を孤独から解放してあげたい」
彼女はもう 慎重な女性ではなかった。
まるで何かに急きたてられてでもいるかのように、彼女は 彼女が“話さなければならないこと”を まくしたて続ける。
「あの夜、まるで これが最後で、もう会えないとでもいうかのように、氷河は何度も私を求めた。私がベッドを出ようとするたび、『行くな』って言って 私を引き止めて。どうして あの氷河が、朝になった途端、別人のように冷たい人間になれるの。どっちが本当の氷河で、どっちが偽りの仮面をかぶった氷河なのかって考えたら、答えは明らかでしょう」
「……」
「彼は寂しがりやなの。だから、寂しくなることを恐れて、一人になることを恐れて、最初から一人でいようとする。氷河は何も言わないけど、私にはわかる。私は彼の心を温めてあげたいの。だから、氷河に言って。私は強い。私は死なない。私は氷河を一人にしない。ずっと氷河の側にいる。だから、ずっと一緒にいましょうって、私がそう言っていたと氷河に伝えて」

彼女は慎重な女性ではない。
でなければ、彼女は、氷河が ふざけて作った強すぎる酒を飲まされて、真っ当な判断力を失っているのだ。
彼女は、言ってはならないことを言ってしまっている。
「私は彼を愛している。私は彼を幸福にできる。幸福にしてあげたい」
「あなたのお名前は?」
「そんなものない。氷河を愛している女よ。そして、氷河が求めている女。そう言えば わかるから」
「……」
「お願い。私は氷河を幸せにしてあげたいの」

それで彼女は、彼女が言わなければならないことを(瞬にしてみれば、それは迂闊すぎる失言だったが)、すべて言い終えたらしい。
掛けていたベンチから立ち上がり、もう一度、
「お願いね」
と念を押して、瞬の答えを確かめもせず、彼女は駆け出した。
ハイヒールも、ワンピースと同じ臙脂色。

なぜ 彼女は それを“瞬”に言ったのか。
なぜ 彼女は それを“瞬”に言わなければならなかったのか。
瞬は すぐには考えを整理できなかったのである。
やはり今夜は氷河の許に行かなければならないようだと、瞬は思った。






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