突然マーマを殺されて 孤児になった日の夜、たった ひと晩で、俺は一生分の涙を流し尽くした。 朝になっても、何をする気も起きなくて、ものを食う気にもなれなくて――それから 丸々 2日間、家ん中に閉じこもって、俺はずっと寝台の上で丸くなってた。 マーマを失ってから、一人ぽっちで過ごした3度目の夜が明けようとしている。 このままでいたら、多分 俺は死ぬだろう。 もうすぐ――きっと、もうすぐ。 ああ、でも、そんなことは どうでもいいんだ。 マーマがいないなら、そして、マーマの仇を討つこともできないなら、俺は生きてる甲斐がない。 俺は1秒でも早く、さっさと死んでしまいたかった。 生きてると、いろんなことを考えてしまうから。 死を待って 生きてることも苦痛に思えるくらい、俺は死を願っていた。 早く 何も考えられなくなりたくて――『誰か、俺を殺してくれ!』って叫びそうになった時、ふいに どこからか、誰かの声が 俺の上に降ってきたんだ。 「どうして、泣いているの」 って。 丸々2日間 何も食ってなくて、そんな力はなかったはずなのに、どういうわけか 俺は その声に、 「泣いてない!」 って怒鳴り返すことができた。 泣いてなんかいない。 俺は怒ってるんだ。 「でも……」 「うるさい! 俺は泣いてなんかいないんだ!」 「ごめんなさい……」 俺に声をかけてきた誰かは 妙に素直で――大人に そんなふうに謝られたことがなかったから、俺は ちょっと驚いた。 いや、そんなことより――誰だ、勝手に俺んちに入りやがって。 俺は もうすぐ死ぬつもりだけど、俺が死ぬまで この家は俺の家だぞ。 泥棒なら、明日 出直してきた方が楽に仕事ができるのに、なんで今日 来るんだよ。 ほんと要領の悪い泥棒だな。 そんなこと考えながら、俺は、のろのろと顔を上げた。 そしたら、そこに、女の子だか男だか わからない大人が一人 立ってた――いや、地べたに ぺたんと座ってた。 大人じゃない――のかな。 こいつは、大人の目をしていない。 きっと、15、6歳くらいだ。 大人って言っていいのかどうか、微妙な線。 ほんとの大人なら、普通に子供扱いする歳だと思う。 でも、俺より7、8歳くらいは年上だろうから、俺よりは大人。 俺は 身勝手で傲慢な神は嫌いだし、最初から すべてを諦めてる大人たちも嫌いだけど、こいつは――こいつは何だ? 何に分類すればいい? 綺麗な目――澄んで――びっくりするくらい澄んで綺麗な目。 大人はもちろん、子供でも こんな目をしていない。 澄んでて大きいけど、赤ん坊の目とも違う。 赤ん坊の目は、何も知らないから、ただ汚れてないだけなんだ。 でも、この目は違う。 “汚れてない”んじゃなく“清らか”。 そんな気がした。 『おまえ、誰だ?』って 訊こうとしたら、先に そいつが 俺に、 「ここはどこ?」 って訊いてきた。 なに言ってんだ、こいつ。 断わりなく 人んちに入ってきてるくせに。 「どこって、マーマと俺の家の俺の部屋だよ。勝手に入るな」 「君の家?」 俺の返事を聞いて、そいつが辺りを見まわす。 だから 俺も おんなじことをしたんだ。 そしたら。 どういうことだよ。 そこは マーマと俺の家じゃなかった。 俺は マーマと俺の家の、俺の部屋の、俺の寝台の上に倒れてたはずなのに、そこは俺の家じゃなかった。 俺は、俺の家の俺の部屋の寝台から一歩も動いてないはずなのに。 そこには何もなかった。 見事に何もなかった。 壁も窓も空もない、ただの真っ白い空間。 俺は そこに、俺が見たことのない誰かと――俺より大人だけど、他の大人より子供の誰かと――二人だけでいた。 ここは雲の中なんだろうか――って、最初 俺は思ったんだ。 そんなわけないんだけど。 雲ってのは、要するに細かい水の粒でできてるもので、その中は白くなんてないはず。 それくらい、俺だって知ってる。 「ここ、どこだよ。俺はマーマと俺の家にいたのに――寝台に転がってたのに……」 そして、一人で 死ぬのを待ってたのに。 ああ、でも、ここが どこだって、そんなこと どうでもいい――どうだっていい。 マーマがいないのに、ここがどこだとか、今が いつだとか、そんなの どうだっていいことだ。 でも、こいつが誰なのかってことは どうでもいいことじゃない。 「おまえ、誰だ」 「僕は瞬……っていうんだけど……」 瞬か。瞬ね。 名前なんか わかったって、何の意味もない。 俺が知りたいのは名前じゃなく、こいつが何者なのかってことだ。 こんな変なとこにいるなんて、こいつが普通の人間のはずない。 「急に こんなところに現れるなんて、おまえは神か」 「ううん、人間だよ」 「本当か?」 「僕は、アテナの聖闘士なんだ」 “瞬”に そう言われて、聖闘士っていうのは初めて聞く言葉だったけど、聖闘士ってのは何だろうなんて、俺は思わなかった。 アテナってのは、神の名前だ。 神! 俺のマーマを俺から奪った奴の仲間! そう思ったら――思うより先に、俺は ほとんど反射的に瞬に殴りかかってた。 俺よりは大人だけど、瞬は普通の大人より ずっと細くて小さくて――俺は簡単に瞬を ぶちのめせると思ったんだ。 自慢じゃないけど、俺は喧嘩は強い。 力のある大人の男にだって負けない。 うすのろの大人たちは、そもそも俺を捕まえることができないんだから。 俺を捕まえられるのは、マーマだけだった。 マーマからは逃げられない。 いたずらを叱られるって わかってても、逃げられない。 だから、俺は驚いた。 瞬は、瞬に殴りかかっていった俺の拳を、どういうわけか軽く よけて、どういうわけか俺の腕を ふわっと掴み、簡単に俺の動きを封じてのけた――俺を捕まえてた。 マーマじゃないのに。 俺が マーマ以外の奴に捕まるなんて、そんなこと あるはずないのに。 でも、その“あるはずないこと”は あって――現に俺は瞬に捕まってた。 俺の腕を掴んでる瞬の手には ほとんど力が こもってなくて、なのに 俺は その手から逃げられなくて――。 俺はマーマじゃない奴に捕まってた。 逃げたくない人じゃない奴に捕まえられてた。 こんなことは初めてで――この世の中には、俺の思い通りにならないことが ほんとはたくさんあったんだって思い知らされたような気がして、俺は急に すごく泣きたくなった。 こんな、ちゃんとした大人じゃない奴を殴ることもできないんじゃ、ゼウスやアポロンを――神を倒すなんて到底 無理な話だ。 俺は無力だ。 無力な子供だ。 そんな奴、生きてたって、何にもならない。 生きてたって、何にもできない。 無力な子供は ただ泣くことしかできないんだ。 一生分の涙を流し尽くしたはずだったのに、俺の目に涙が にじむ。 俺が流し尽くしたのは――流し尽くしたと思ったのは――多分、悲しみの涙だけだったんだ。 そして、今 俺が流しているのは悔し涙だ。 俺が生きてることには意味がない――。 こんな悔しいことがあるか。 じゃあ、俺は何のために生まれてきたんだよ。 「俺を殺してくれ」 他に どんな望みもない。 俺は これ以上、自分には どんな力もなくて、自分が意味のない存在だってことを 考えたくないんだ。 そんな俺を殺すことなんて、きっと瞬には簡単なことだったろうに、なのに、瞬は俺を殺してくれなかった。 代わりに、なんか すごく気遣わしげな声で 俺に訊いてきた。 「何か つらいことがあったの? どうして泣いているの?」 俺は もう意地を張る力もなくなってたから、瞬に訊かれたころに素直に答えたんだ。 なぜ俺が死にたいのか 説明したら、瞬は俺を殺してくれるに違いないって思ったから。 |