「ご……ごめんなさい。僕は、あなたのおかげで 聖闘士になれたのに――今も こうして生きていられるのに……」 瞼を伏せて そう告げる瞬の いかにも気弱げな様子を見て、氷河は――氷河もまた、冷静な判断力を取り戻すことになった。 大人でも 大人でなくても、瞬は瞬なのだ。 むしろ この瞬は、大人になった瞬よりも 瞬そのもの――10年前に自分が出会った瞬そのものなのだということに、氷河は 遅ればせながら思い至ったのである。 そして 彼は、この10年間 胸に抱き続けていた もう一つの望みを思い出した。 「俺は――おまえに褒めてもらいたいの一心で、聖闘士になったんだ。必ず もう一度会って、おまえを俺の恋人にするという望みを叶えるために」 「え…… !? 」 「年上といったって、せいぜい7、8歳程度の差だし、年上の恋人もいいと思っていたんだが――要するに おまえは、未来のあの人じゃなくて、俺が恋をした あの人そのものなんだな」 「……」 氷河の もう一つの望みを知らされて、大人気ないことをしてしまったと反省していた瞬の顔が 引きつり 強張る。 己れの道を突き進むところも、気の強いところも、氷河は10年前とまるで変わっていなかった。 「そ……そういう冗談はやめてください。僕はれっきとした男子です」 「知ってる。ガキの俺を抱きしめてくれた時、わかった。おまえ、よもや忘れてはいないだろうな? 10年前、おまえは、俺が聖闘士になれたら 俺と結婚すると約束した」 「あ……」 もちろん、瞬は忘れていなかった。 氷河にとっては10年前の約束でも、瞬にとっては それは つい数日前に氷河と交わした約束だったのだ。 たとえ氷河が聖闘士になれたとしても、その頃には彼は そんな約束のことなど忘れてしまっているに違いないと たかをくくって。 だが、あの小さかった氷河は、その約束を10年間 忘れずにいたらしい。 しかも、彼は どうやら 自分を男子と知った上で、その約束の履行を迫るつもりでいるらしい。 氷河の記憶力と非常識に ぽかんとしていた瞬は、今は のんびり ぽかんとしていていい時ではないことに気付き、慌てて自分に活を入れた。 まさか氷河と戦い彼を倒して 諦めさせるわけにもいかないので――ほとんど悲鳴じみた声で アテナに救いを求める。 「アテナ! 僕は、地上の平和を守るために――この地上から不幸な子供をなくすために、つらい修行に耐えて 聖闘士になったんです。こんな破廉恥な人と一緒に戦うなんて、僕にはできませ――」 『ん』を、アテナは瞬に言わせなかった。 畏れ多くも 知恵と戦いの女神アテナが、玉座から立ち上がり、慈愛の笑みを浮かべて、一介の青銅聖闘士の前に立つ。 彼女は、優しく温かい声で、至近距離から瞬に囁きかけてきた。 「瞬、あなたには、私から特別の贈り物を贈るわ。あなたの兄―― 一輝が私の聖闘士として、私に仕えてくれています。今は、ちょっと西方に 不穏な気配があって、その調査のために出ているけど、2、3日中には聖域に戻ってくるわ。一輝はずっと、あなたを見守っていたのよ」 「に……兄さんが生きて……兄さんが、ここにいるんですかっ !? 」 「ええ」 「アテナが兄さんを救ってくださった……?」 「そうよ。あなたの兄は、私がスカウトの聖闘士を派遣するまでもなく、その身の内に 神の理不尽に抵抗する気概を育んでいた。私は、あの稀有な子供の命を ゼウスに奪わせる気にはなれなかったの」 「アテナ……本当に……」 本当に、何という素晴らしい贈り物を贈ってくれることか。 彼女がもし アンドロメダ座の聖闘士の命が欲しいと言ってきたなら、一瞬も ためらうことなく、自分は自分の命を彼女に差し出すだろうと、瞬は思った。 残念ながら(?)、彼女は そんなものを求めてはいないようだったが。 「氷河のことなど 放っておきなさい。氷河が あなたに行き過ぎたことをするようなら、一輝が氷河を撃退してくれるわ。一輝は あなたの強さを信じて、ずっとあなたの成長を見守っていたの。これまで黙って見守っていることしかできなかった分、あなたが晴れて聖闘士になった今、一輝は あなたに兄としての愛情を示したくて うずうずしている。一輝にとって、氷河はいい標的よ」 「あ……」 兄が生きていた。 兄に会える。 地上の平和を守るために、兄と共に戦うことができる――。 これほどの喜び、これほどの幸せがあるだろうか。 そして、これほどの喜び、これほどの幸せを与えてくれたアテナ――兄の命を守ってくれたアテナ。 瞬には、 「私の聖闘士として、世界の平和を守るために努めてくれるわね?」 という、アテナの望みを退けることなど、たとえ死んでできるものではなかった。 「はい、もちろんです! 僕の命はアテナのものです……!」 「ありがとう、瞬。そう言ってくれると信じていたわ」 アテナが、瞬の答えに満足そうに頷く。 そうしてから 彼女は、今度は 氷河の方に向き直り、小声で白鳥座の聖闘士に囁いた。 「瞬は あんなことを言っているけど、まんざらでもなさそうよ。何といっても、瞬にとって あなたは10年間 憧れ続けた人なんですもの。憧れの人に情熱的に迫られて、悪い気がするはずないわ。ほんの一押しで、瞬は あなたの10年間の一途な思いに ほだされることになるでしょう。聖闘士として共に戦っていれば、二人の間には強固な信頼も築かれることになる。頑張りなさいね。愛は大きな力を生むものよ」 「……」 アテナの激励は、氷河には願ってもないものだった。 が、さすがの氷河も、アテナの その言葉には、 「いいのか? それで?」 と問い返さないわけにはいかなかったのである。 確か、アテナの聖闘士が為すべき大義、アテナの聖闘士の存在の第一義は、『世界の平和を守るために、命をかけて戦うこと』のはず。 アテナの聖闘士が恋に かまけていていいのだろうかと、アテナが それを彼女の聖闘士に許すことがあっていいのだろうかと、氷河は 彼らしくなく常識的なことを常識的に考えてしまったのだったのである。 そんな大義など聞いたこともないと言うかのように、アテナが氷河に微笑する。 「私の聖闘士の中でもトップクラスの可愛らしさ。ちょっと つれなくされたくらいのことで諦めるなんて、私の聖闘士のすることじゃないわ。私の聖闘士として共に戦っていれば、あなたは あなたの強さや愛情を瞬に示す機会にも恵まれるでしょうし、瞬を口説くチャンスも いくらでもある。そうでしょう?」 「うまいエサを蒔いてくるものだ」 さすがは知恵の女神というべきか。 アテナが白鳥座の聖闘士の前に蒔いたエサを無視することは、氷河にはできなかった。 氷河はもちろん、迷うことなく そのエサに飛びついたのである。 これほど上等のエサをくれる女神のもとでなら、彼女のために 命をかけて戦うことに不満も不平も不足もない。 氷河は彼の女神に頷き、瞬の方に向き直った。 そして、その前に手を差し出す。 「瞬。個人的なあれこれはともかく、こうして二人、アテナの聖闘士になることができたんだ。互いに、地上の平和のために努めようじゃないか」 兄が生きていた喜び。 兄の命を守ってくれたアテナへの感謝。 ただ一人の母を失って泣いていた、負けん気の強い小さな子供の面影。 あの小さかった子供が、アンドロメダ座の聖闘士の励ましに力を得て 生きる決意をし、たくましい聖闘士になってくれたこと。 二人の新米聖闘士を見詰める、アテナの豊かな微笑。 様々な事柄や思いが入り混じり、交錯し――瞬は 結局、氷河に差し出された手を拒むことができなかった。 「その件に関しては、僕にも異存はないけど……」 「うむ。では、これからよろしく」 そう言って、瞬の手を強く握りしめてきた氷河の手。 アンドロメダ座の聖闘士を見詰める白鳥座の聖闘士の瞳。 その手の熱さに、地上世界の平和を願う心とは別の情熱があるようで、冷たく冴えた青色の瞳の奥で 異様なまでに熱い炎が燃えているようで、瞬は少し嫌な予感がした。 Fin.
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