今宵、一軒のバーで

- 1杯目 ダイキリ -







時刻は夜の10時過ぎ。
店のドアが開き、一人の客が入ってきた。
年齢50歳前後。
初めて見る顔だと思うのだが、本当にそうなのかどうかについては、あまり自信がない。
ほとんど黒と言っていいほど濃い褐色のカジュアルスーツを見に着けていて、物腰は やわらかく、しかし、隙のない男。
表情は穏やかで、人好きのするところがある。
年齢にふさわしい渋みをたたえ、色気を絶った色気のようなものが感じられる、なかなか優れた風姿の男である。
氷河は、壮年と中年の違いが よくわからなかったのだが、“中年太り”なる単語には縁がなさそうな体格で、体力も気力も充実しているように見えるので、壮年と言っていいのだろう。
しかし、どこか線の細さも感じる。
いずれにしても、その男は、一見したところは、分別を備えた温厚で 気さくな紳士――といった風体の男だった。
にもかかわらず、氷河が彼に最初に感じたのは 悪意――その悪意が何に向けられたものなのかは察しようもないが――とにかく異様なほど重く静かな悪意だったのだ。

10席あるカウンター席は8席が埋まっていた。
テーブル席は空いていたのだが、彼はカウンター席に腰をおろした。
「ダイキリを」
氷河は、その男を一瞥し、無言でオーダーされたカクテルを作る準備を始めた。
ホワイト・ラム、ライム・ジュース、砂糖のシロップ。
ダイキリを作るのに必要なものを作業台の上に並べると、氷河は、それらを無言でシェイカーに入れ、シェイクの作業に取りかかった。
その様を見ている客は妙に嬉しそうで――優しい印象の強い顔に、意地の悪い笑みが一瞬 浮かんだ。
出来あがったカクテルを注いだカクテルグラスを、氷河が無言でカウンターテーブルに出すと、また口許を僅かに歪める。
一口 飲んで、彼は満足したように微笑し、一言、
「不味い」
と言った。
氷河は、微動だにしない――氷河は表情一つ変えなかった。

「こんなに 不味いダイキリを飲んだのは初めてだ。よく、こんなものを作れるな。所詮、街場のバーということか。こんなに不味いものを平気で客に出すとは。この店の客は 酒の味がわからない者ばかりらしい。でなければ、この店は とうの昔に潰れているはずだ」
氷河が表情も変えず 無言でいたのは、彼が 表情を変える必要、言葉を発する必要を感じていなかったからである。
その必要はないはずだと、氷河は思っていた。
氷河の代わりに口を開いたのは、氷河の店を贔屓にしている女性客の一人。
もっとも、彼女がカウンターチェアから立ち上がって 紳士の許に赴いたのは、決して氷河のためではなかっただろう。
氷河が 自分の店の客の名誉のために戦ってくれるような男ではないことを知っている彼女が、自らの名誉を守るために立ち上がった――と言うのが正しい。

「ハンサムな おじ様。それは、私の舌を馬鹿にしているのかしら?」
この店の主と違って、彼女の武器は笑顔だった。
にっこり微笑みながら、自分より20歳近く年上の新参の客に尋ねる。
“ハンサムなおじ様”は、やはり笑顔で、恐縮したように 僅かに首を右に傾けた。
「とんでもない。そう聞こえたのでしたら、お許しください。私は ただ、この店の お客様の忍耐強さと寛容に感じ入っただけなのです」
「同じことよ。見たところ、酒の味に いちゃもんをつけて、あわよくば タダ飲みしようとするごろつきってふうでもなさそうだけど――この店で不味い酒なんて出てくるわけないでしょ。氷河は、愛想も愛嬌もないけど、バーテンダーとしての腕は確かよ」

ハンサムなおじ様が、驚いたように目を見張る。
彼は、いかにも取ってつけたようだった微笑を消し去り、
「本気で おっしゃっているんですか」
と、彼女に尋ね返した。
おそらくは、それが彼の素の表情、普段通りの言葉使いである。
本来の彼は、その風貌通りに温厚な紳士なのだ。
「当たりまえでしょ」
本来は温厚で分別のある紳士が、初めての店で 妙な言いがかりをつける。
いったい どういう場合に そういうことが起こり得るのか――。
彼女が怪訝に思いながら、“おじ様”に首肯すると、“おじ様”は、嘆かわしげに頭を振った。

「初めての客にダイキリを頼まれて、客の好みも確かめずにカクテルを作り始めるバーテンダーに 美味い酒を作れるはずがない」
店内にいた客たちが全員、奇異の表情を浮かべたのは、彼等が“おじ様”の言い分に一理があると思ったからだったろう。
それ以上に、この店のバーテンダーに自分の好みを伝えたことがないのに、自分たちが この店で口に合わない酒を飲まされたことがないという事実に、今 初めて気付いたからだったかもしれない。
「あなた、お酒の素人ではないのかもしれないけど、氷河は それでも いつも美味しいお酒を出してくれてるわ。氷河の作るカクテルが不味かったことなんて、これまで一度もなかったわよ」
「お客様の舌は実に寛大だ。この店は 実に恵まれている。ああ、もちろん 私は あなたの優しい心に感動し、称賛しているのです」

全く 称賛しているように聞こえない。
カチンときて 言い返そうとした彼女を止めたのは、
「まあ、そうだろうな」
という、氷河の低い声だった。
初めての客の方に向き直り、氷河は にこりともせずに、
「不味い酒を飲みたかったのではないのか」
と問う。
「……!」

ハンサムなおじ様は、一瞬 虚を衝かれたような顔になった。
そして、この店のバーテンターの顔を まじまじと見詰める。
だが、今夜 初めて この店に来た、氷河の人となりを知らない人間が、氷河の無表情から読み取れるものは、せいぜい 冷たさくらいのもの。
おそらく、彼も そうだったのだろう。
やがて 彼は、氷河の無表情から何かを探り出すことを諦めたようだった。
律儀に、心底から不味そうに、氷河の作ったダイキリを すべて飲み干す。
そうしてから、彼は、
「釣りは、これほど不味いダイキリを飲ませてもらえた礼だ」
と言って、釣り銭を受け取らずに店を出ていった。

その間、氷河は終始 無言、無表情。
初見の客が店を出ていくと、何もなかったような顔で 空になったグラスの片付けを始めた。
が、おじ様に突っかかっていった女性客は、それでは気が治まらず、納得もできなかったらしい。
鞘から抜き放った刀の振りおろし場所を求めて、彼女は 今度は氷河に突っかかってきた。
「なに、あれ! てゆーか、氷河、どういうことよ! 不味い酒を飲みたかった――って、そんな酒飲みがいるわけないでしょ!」
「……」
目の前に 刀を振り下ろされても、 氷河は何も喋らない。
彼女とて、まさか氷河が ここで ぺらぺらと事情説明をしてくれると思っていたわけではなかっただろう。
この店の主が そんな親切な男でないことは、常連客の彼女は百も承知していたはず。
それなら それで、嘘でもいいから『わからん』の一言くらいは言ってほしい――というのが、彼女の ささやかな望みだったに違いない。
そのたった4つの音を発することすらしてくれない氷河に、彼女は大きな不満を抱え込むことになったようだった。

「もう! 常連客の名誉を守るために戦えとまでは言わないけど、訊かれたことに答えるくらいのことはしても罰は当たらないわよ!」
いきり立ち 怒鳴り声をあげる彼女に 他の客が迷惑顔を向けないのは、彼等もまた、彼女と同じ不満――知りたいことを教えてもらえないことへの欲求不満――を抱えていたからだったろう。
このままでは 何か言わなければならなくなる――と、氷河が内心で うんざりしかけた時、救いの主が その場に現れた。






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