「私がカウンターに立てなくなったのは、ある病気に罹ったからです。3年前――内臓にも血にも骨にも異常がないのに手足が動かなくなり、シェイカーを振ることはおろか、持つことさえできなくなった。私は それまで仕事一筋で 生きてきましたからね。私の作る酒を愛してくださる方々を家族と思い、そういった方々が喜んでくださる顔が見たくて、日々 新しいカクテルの研究にいそしみ、美味い酒を探して あちこちに出向いた。私の酒を愛してくれる方々を、私のバーで幸福にすること――それが私の生き甲斐で、生きる理由だった。私は 可能な限り早く病を治して、もう一度カウンターに立ちたかった」 「それは……」 やはり 馬殿氏はバーテンダーだったらしい。 それも、氷河とは真逆のタイプの。 病を得てカウンターを去ることを 贔屓客の誰にも告げなかったのは、馬殿氏が 自分の“家族”に心配をかけたくなかったからなのだろう。 酒井氏は『水臭い』という言葉を呑み込んだ――ようだった。 「しかし、病名がわからなかったんです。正確に言うと、正しい病名がわからなかった。最初に行った病院では、リウマチ性多発筋痛症だと診断され、その治療を始めた。だが、一向に回復の兆しが見えなかったので、別の病院に行ってみた。そこでは、側頭動脈炎だろうと言われましたよ。そして、その病気の治療を始めた。それでも、私の手足は力が入らないままだ。次の病院の見立ては皮膚筋炎。破傷風や悪性腫瘍を疑う医師もいた。だが、どれも違っていたんです。間違った診断を下されるたび、不適切な治療を繰り返し、それが 私の本来の病気を ますます悪化させ、わかりにくくした。そんな状態が1年半以上 続いたんです。独り身で 蓄えがあったので、生活に不安はなかったのですが、生き甲斐を突然 奪われた私は 鬱になりかけていた。最後に、光が丘病院の医師が初めて、クラウンド・デンス症候群という、私の病の正しい病名を突きとめてくれた。見当違いの治療で ぼろぼろになっていた私の身体に適切な治療をしてくれて、今は回復に向かっている」 「瞬さんですか」 「ご存じですか。……ああ、瞬先生は、こちらの店に いらしているんでしたね。酒井さんも お会いしたことがあるわけだ」 「存じあげています。一度 会ったら忘れられませんよ。人間のものとも思えない、あの澄んだ瞳は」 「ええ」 瞬の瞳を思い浮かべたのか、馬殿氏が 一瞬 夢を見るように うっとり その視線を たゆたわせる。 そうしてから、僅かに後悔を感じさせる所作で、馬殿氏は頭を2、3度 横に振った。 「最初は、こんなに若い、私の子供と言っていい歳の医師に何がわかるものかと思い、侮っていたんです。私は自暴自棄になっていましたし――。ですが、瞬先生は本当に熱心で、親身になってくださって、必ず元の生活を取り戻しましょうと、私を励ましてくださって―― 一緒にいるのが心地よく、カウンセリングを受ける気分で、私は瞬先生の問診や検査を受けていたんです。何でも話しましたよ。両親や親族の既往症や生活習慣に始まって、私自身の生い立ち、毎日の生活――どんなものを食べ、どんな運動をし、どんな睡眠をとり、どんな仕事をし、どんなふうに勤め、どんな夢を持ち、病気や病気の治療によって犠牲にしたくないものは何か、犠牲にしてもいいものは何か――私は すべてを瞬先生に打ち明け、瞬先生は 私のために最適の治療法を選んでくれた」 「瞬さんは 優しい方ですから。私は時々 医師の世話になる必要のない自分の身体が 恨めしくなりますよ」 酒井氏の その言葉を、馬殿氏は ジョークとは思わなかったのだろう。 彼は、至極 真面目な顔で 酒井氏に頷いた。 「瞬先生は、私の命の恩人です。私の心の恩人。瞬先生は、もう終わらせるしかないのだと諦めかけていた 私のバーテンダー人生をつなげてくれた。まさに命と心の恩人なんです。言葉では言い表わせないほど、私は瞬先生に感謝している。その気持ちをわかってもらいたくて――しかし、私にできることといえば、酒を振舞うことだけだ。私に できることは それしかない。瞬先生が 酒を たしなまない方だと聞いた時には落胆しましたよ。私にできる最高の、唯一の礼ができない」 「……」 酒井氏の目に 同情の色がにじむ。 馬殿氏に語られる前に、彼は おおよそのところを察してしまったようだった。 馬殿氏は 研究のために この店にやってきたのではなかったのだということを。 「先日、予後の検査のために病院に行って、その際に、瞬先生が 最近 街場のバーに通っているという話を洩れ聞いたんです。いったい なぜ、どうして そんなことがありえるんだと思いました。私は瞬先生が酒を たしなめないと伺っていたから、瞬先生を私のバーに ご招待することを我慢していたんです。そのことは瞬先生も ご存じのはずなのに。酒を飲めない瞬先生を通わせるバー。いったい どんなバーテンダーがやっている店なのかと確かめずにいられなくなって、私は その店を見に行った――この店に来た」 そこまでは酒井氏の察した通りだったのだろう。 だが、酒井氏は そこで首をかしげた。 そこまでは推察通りだったが、それが なぜ『不味い』になるのかが、彼にはわからなかったのだろう。 おそらく、酒井氏は氷河の店で不味い酒を出されたことはなく、美味い酒を『不味い』と評するようなことをしない馬殿氏の 人となり――それは、バーテンダーとしての矜持と言ってもいい――を知っていたから。 「店に来て見たら、バーテンダーは随分と若い。当然 経験も浅いでしょうし、さほど優れた腕を持っているとは思えない。だが、姿だけは完璧だった。若くて健康で 驚くほどの美男子。あらゆる意味で、瞬先生に釣り合う人間などいないと思っていたのに、彼なら瞬先生の隣りに立っても 見劣りはしないでしょう。やっかみも手伝って――私は彼に バーテンダーとしての腕も才能もなければいいと思ってしまった。彼の作る酒が不味ければいいと思った。そう、私は、この店が 不味い酒を出す店であってほしかったんです。私の期待通り、彼の作る酒は不味かった。彼は、私が不味い酒を飲みたがっていたから 望み通りに不味い酒を出したと言った」 「……まさか」 「ええ。私も 到底 信じられなかったんですが――この店が 酒井さんが通うほどの店なら、その通りなんでしょう。彼は、私が何を期待しているのかを察し、期待通りのものを提供してくれたのだ」 馬殿氏は、そう言って、自嘲の色の濃い笑みを浮かべた。 そんな馬殿氏の前で 酒井氏が沈黙したのは、美味い酒を作ることのできるバーテンダーが、いくら客の希望とはいえ 本当に不味い酒を作るようなことがあるだろうかという疑念と、この店のバーテンダーなら それもしかねないという思いのせいだったかもしれない。 ともあれ、謎は解けた。 馬殿氏は、美味い酒を『不味い』と言ったのではなく、実際に不味い酒を『不味い』と言っただけだったのだ。 「それは――恋ですか」 『嫉妬ですか』と訊かなかったのは、酒井氏の思い遣りだったろう。 氷河が感じていた馬殿氏の悪意――それは、彼の“瞬先生”の通うバーのバーテンダーへの嫉妬だったのだ、おそらく。 「まさか。私は瞬先生の父親でも おかしくない歳ですよ」 「婚約者を事故で亡くしてから、恋の相手はカクテルだけ。馬殿さんの若き日のラブロマンスは有名ですよ。だが、それはもう忘れても――」 「本当に 恋ではないんです。絶対に 恋ではない。瞬先生は、そんな地上的な感情の対象にはなり得ない。私にとって 瞬先生は、私の命を救ってくれた天使――いえ、神にも等しい方だ。恋ではないんです。ただ 私は、心の底から瞬先生に感謝している。その感謝の気持ちが 恋より浅いものだとは思わない」 馬殿氏の言葉通り、それは恋ではなかったのかもしれない。 そして、馬殿氏の“瞬先生”への感謝の気持ちは、恋より深く強いものなのかもしれなかった。 だが、馬殿氏が あまりに『恋ではない』を繰り返すので、かえって酒井氏は その可能性を否定することができなくなってしまったらしい。 何より、酒井氏はロマンチストだったのだろう。 合理主義者に対立する者というより、恋愛賛美者という意味で。 「恋でもいいではないですか。恋の方がいい。瞬さんは存じ上げていますが、美しくて、優しくて、清らかで――馬殿さんが恋をしない方がおかしい。美味い酒が飲めるバーには、ロマンスの香りが似合う」 「……」 恋という言葉は、実に便利な言葉である。 嫉妬も やっかみも バーテンダー同士の競争心も、“恋”という名をつけてしまえば、それは 甘く美しいものになる。 カクテル作りの技術が、禁酒法時代に密造された質の悪い酒を美味しく飲むために発展した技術であるように。 |