- ラストオーダー マティーニとバレンシア -






「では、今度は、私を唸らせるほど美味い酒を。そうだな。酒井さん推薦のマティーニを」
酒井氏と共にカウンター席に戻り、氷河に“美味い酒”をオーダーした馬殿氏の声は、先刻までの刺々しさが消えた やわらかく穏やかなもので、それは 彼が客との間に距離を置こうとする氷河とは異なるポリシーを持ったバーテンダーであることを窺わせるものだった。
人の心を包み込むような彼の声と口調は、むしろ瞬のそれに似ている。
氷河にとって バーのカウンターは 客とバーテンダーを分ける境界線だが、馬殿氏にとってのカウンターは 客とバーテンダーを繋ぐ架け橋なのだ。

その境界線の向こう側で、氷河が馬殿氏のためのマティーニを作り始める。
彼は無表情・無愛想・無感動――もういつものポーカーフェイスに戻っていた。
作ったショートカクテルを 馬殿氏の前に置く時も、いつも通りに無言。
尊敬する(?)先達の前でも 平素のペースを崩さない氷河を見て、服田女史が、
「緊張してる振りくらいはしなさいよ。ふてぶてしいっていうか何ていうか、ほんと 可愛げがないわね」
とぼやき、瞬が、
「氷河、心配そうな顔。意外に小心」
と、からかうように言う。
『どこが心配そうな顔なのか』と言いたげな服田女史を、氷河はあっさり無視した。
「酒の味がわからない おまえと違って、酒の味がわかる人なんだ」
「僕だって、少しずつ わかるようになってきてると思うけど」
「おまえが わかってきているのはシロップやジュースの味だ。おまえが どれだけバーテンダー泣かせな客なのか、ちゃんと自覚しろ。おまえくらい、酒の作り甲斐のない客はいない」
「ひどい」

やはり恋だったのだろうか。
『命と心の恩人に恩返しをしたい』という望みは叶うことになったのに、切ない。
心安く親しげな氷河と瞬の やりとりに、自然に複雑な苦笑が浮かんでくる――。
その苦笑を消すために、馬殿氏は、氷河の作ったマティーニのグラスを口に運んだ。
一口 口に含み、そして馬殿氏は 低く唸った。
「なるほど。これはいい。ジンを 一度、マイナス20度以下に冷やしてから、ゆっくりと温度を戻しているんだな」
馬殿氏にマティーニを推薦した酒井氏が、その言葉を聞いて 得意そうに 唇の両端を上げる。
瞬には 心配顔に見えるらしい氷河の顔は相変わらず無表情だったが、そんな氷河の代わりに、瞬は ぱっと明るく瞳を輝かせた。

「本当に唸ってくださったりして、馬殿さん、お優しい。よかったね、氷河」
余人の目には、心配顔なのか 得意顔なのか わからない氷河の顔――要するに無表情にしか見えない氷河の顔――が いったいどう変わったのか。
本当に変わったのか。
それは瞬以外の人間には わからなかった。
馬殿氏も、それは瞬以外の人間と同じだったのだが、いずれにしても、氷河が正面から大仰に称賛されることを喜ばない男だということは、彼にもわかったのだろう。
彼は、重ねて 氷河のバーテンダーとしての腕を褒めることはやめ、マティーニのグラスをカウンターテーブルに戻して、瞬に尋ねてきた。

「瞬先生は どういったものが お好きなんですか。やはり、甘口で軽いものでしょうか?」
「すみません。初心者なものですから……。カクテルの永遠のテーマは『強くなくて辛口で』だって、氷河には言われてるんですけど、馬殿さんのご推察通り、僕は甘くて軽いものが好きで――。でも、だいぶ 鍛えられたんですよ。マルガリータとXYZの区別がつくくらい。氷河、僕にも何か、僕用のレシピで何か作ってくれる?」
「なにっ」
それまで 余人の目には無表情・無愛想・無感動にしか見えなかった氷河の顔に、初めて 誰にでも見てとれるほどの動揺が走る。
「わ……わかった……」
氷河は、そう答える声も震えている。
自分の恩返しの時のために、馬殿氏は氷河の手許に真剣な目を向けた。

アプリコット・ブランデー、オレンジの果実、フルート型のシャンパン・グラス。
氷河はバレンシアを作るつもりらしい。
子供が見てもわかるほど、氷河の手が震えている。
馬殿氏のマティーニを作る際には 力強く確かなものだった氷河の手指の動きが嘘のように――同じ人間のものとは思えないほど――今は頼りなく、それは まるで恐怖に震えているようだった。
「見ない方が――」
「いや、ぜひ」
この店の主の手に向けられる馬殿氏の真剣な眼差し。
その視線を受けて、氷河は彼の青い瞳を絶望の色に塗り替えた。

バレンシアの標準的なレシピは、アプリコット・ブランデーを40ミリリットル、バレンシア・オレンジの果汁を20ミリリットル、オレンジの皮でできた苦みのあるオレンジ・ビターズをティースプーンに半分。
氷河が瞬のために作るバレンシアの内容は、バレンシア・オレンジの果汁が60ミリリットル、そこにアプリコット・ブランデーを2滴、オレンジ・ビターズは入れず、大量の砂糖。
それをシェイカーに入れてシェイクを始めた氷河を見て、馬殿氏は ぽかんとした顔になった。
文字通り、開いた口が ふさがらない状態である。
氷河が瞬のために作るバレンシアは、いわゆるカクテルのバレンシアとは似て非なるもの――否、それは全く違うものだった。
むしろ、バレンシアオレンジシロップと言った方が正しい。
子供の目でも見てとれるほど明確に 気まずそうな顔をした氷河が、瞬用のレシピに従ったバレンシアを瞬の前に置く。
それを一口飲むと、瞬は、満面の笑顔を浮かべ、
「おいしい」
と、幸せそうに言い放った。

「これほどの腕を持ちながら、こんなものを作らされて――」
瞬の笑顔と氷河の悲痛な面持ち、氷河が瞬のために作ったバレンシアと 自分の前にあるマティーニの入ったグラスを見比べて、馬殿氏が低く呻く。
彼は、『これでは、宝の持ち腐れだ』と言おうとしたらしい。
そして、『さぞや つらいだろう』と、氷河を慰めてやりたかったらしい。
それらの言葉を喉の奥に押しやり、無言で この店のバーテンダーを見詰める馬殿氏の眼差しに、氷河は男泣きに泣いてしまいそうになったのである。


「時間をくれ。もう少し鍛えてから連れていく」
氷河は今は そう言うだけで精一杯だった。
『誰を』『どこに』『何を』『なぜ』『どのように』――色々な言葉が省略された、氷河の呻吟。
馬殿氏は、だが、氷河が省略した言葉を すべて理解し、氷河がなぜ5W1Hの ほとんどを省略しなければならなかったのかも わかってくれているようだった。
一見 冷淡で辛口な この店のバーテンダーは、実は悲しいほど甘い男なのかもしれない。
馬殿氏が そう思っていることが、氷河には容易に見てとれた。
それが 紛れもない事実だったので、氷河には 弁明も弁解もできなかったのである。






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