その日、ニートで引きこもりの氷河王子が 珍しく外出することを思い立ったのは、幼い頃 お母様と出掛けたことのある海を見たいと思ったからでした。 冬の間 ずっと凍っていた海の氷が少しずつ融け出す春。 初春の浜辺で、お母様が、 「流氷の間を縫って 浜に寄せてくる波を見ていると、海が 世界に向かって、『春が来たから、目覚めなさい』と囁いているように聞こえるわね」 と、優しい声で言っていたことを思い出したから。 春の 控えめな波を見詰めていたら、長い眠りに就いてしまった お母様も目覚めてくれるのではないか――。 本当に そんなことが起こるはずがないことは わかっていたのですが、氷河は ふいに、どうしても春の海が見たくなったのです。 せめて王子様らしく白馬に乗ればいいのに、その日、氷河王子は 馬車で浜辺に向かいました。 そして、その途中で、氷河王子は、春の浜辺に着く前に 春に出会ってしまったのです。 氷河王子が その春を見ることのできた時間は、ほんの5、6秒だけでした。 春のような笑顔。 周囲の空気までが春めいて暖かく感じられるような、不思議な美少女。 「誰だ、あれは」 氷河王子のお供で 一緒に馬車に乗っていた侍従長は、氷河王子の その言葉に びっくり仰天したのです。 それも そのはず。 なにしろ、氷河王子が 自分から外界のことに興味を示すなんて、お母様が亡くなって以来 初めてのことでしたから。 「あれとは誰です」 これは何かの兆候。 何か春めいたことが起きる きっかけ。 氷河王子の世界が、ついに目覚める兆しかもしれません。 50歳近い侍従長は、小さな子供のように 狭い馬車の窓から身を乗り出して、氷河王子が言った“あれ”の姿を確かめました。 侍従長は、残念ながら その後ろ姿しか見ることはできませんでしたけれどね。 侍従長は 急いで馬車の屋根をステッキで叩き、 「止めろ! 馬車を戻せ!」 と、御者に命じました。 御者は慌てて馬の足を止め、Uターン。 御者の手綱さばきは きびきびしたもので、侍従長の命令は速やかに実行されたのですが、氷河王子の春は どこの横道に入ったのか、侍従長にも御者にも 見付け出すことはできませんでした。 引きこもりのニートのくせに、氷河王子も馬車から飛び出して、自分の足で、人通りの少なくない都の通りを駆けまわって探したのに、どうしても。 天に昇ったか、地に潜ったか。 氷河王子は 氷河王子の春の美少女を見付けることができなかったのです。 がっかりした氷河王子は 外出も取りやめて、昨日より暗い顔で お城に戻ることになってしまったのでした。 |