ハーデスに奪われていたものを取り戻し、それが何であったのかに気付き、氷河は敵地の真ん中、アテナの聖闘士の最大の敵の前で、心身の緊張を失い、呆然としてしまったのである。
ハーデスが氷河に“それ”を返した時、氷河はすべてを思い出した――否、自分がハーデスに奪われていたものが何だったのかということに気付いた――知った。
それは 彼の記憶の一部であり、感情の一部であり、心の一部、魂の一部、肉体の一部でさえあった。

自分が どんなに瞬を好きだったか、どんなに愛していたか どんなに瞬に焦がれ、恋していたか、どれほど瞬を欲していたか。
氷河は 今、自分が 自分の いちばん大切なものを奪われていたことに気付いた。
自分が 自分の いちばん大切なものを取り戻したことに気付いた。
白鳥座の聖闘士は、自分から それをハーデスに差し出したのだ。
瞬の命を救うため、瞬の命を失ってしまわないために。

氷河の いちばん大切なもの――それは、氷河の“瞬への思い”だった。
天秤宮で、氷河に“それ”を求めてきた声の主は、そういえば 瞬を『アンドロメダ』ではなく『瞬』と呼んでいた。
その呼び方は、アテナの敵のそれにしては妙なものだった。
味方のものであったとしても、妙である。
それは、アテナの聖闘士である瞬ではなく、一個人としての瞬と親しい者たち――瞬の仲間や友人たち――が用いる呼び方であるはずだった。
あの時、ハーデスは、アテナと聖域に敵対する者ではなく、瞬に執着する者、瞬を死なせるわけにはいかない者だったのだ。
そして、瞬を恋する男を邪魔に思っている者だった。

奪われていたものを取り戻した氷河は、自分が奪われていたものの大きさ広さ深さに驚愕した。
これほど大きく、これほど広く、これほど深いもの――これほど大切なもの――を奪われていたのに、その喪失に気付いていなかった自分という男に、氷河は不信の念さえ抱いた。
卑近な言葉で『俺は馬鹿なのか』と、真剣に 己れの知性と感性を疑うことさえした。
幼い頃からの、瞬との思い出。
様々な出来事。
そのたびに募った瞬への思い。
“氷河”という男の いちばん大切なもの。
氷河を何より慌てさせたのは、アテナの聖闘士たちが聖域に向かう前日の瞬とのやりとりの記憶だった。



聖域に発つ前日。
これから自分たちが向かう場所が、今はまだ敵地であることを、二人は知っていた。
そして、氷河は、そこに自分の師がいることを、瞬は そこに 自分の師を倒した者がいることを、知っていたのである。
そこで、自分たちが得るものが、勝利と生であるとは限らないことも。
だが、氷河が、
「聖域で、俺たちは 命を落とすことになるかもしれんな」
と、瞬に告げたのは、アテナの聖闘士たちの敗北と死を憂えてのことではなかった。
決して そうではなかったのである。

「そうだね。でも、沙織さんが真実のアテナなのは確かなことだから――きっと正義は行われるよ。僕たちが死んでも、沙織さんがアテナとして聖域を正してくれれば、聖域と この世界は、きっと本来あるべき姿を取り戻す――」
瞬が アテナの聖闘士として、深刻に真面目に 彼の仲間に応じてくる。
これからアテナの聖闘士たちが経験することになる苛酷な戦いのことなど知らぬげに、城戸邸の庭は 春を迎える準備に余念がなく、そこにある木々は静かに 密やかに 新芽を芽吹きつつあった。
木枯らしでもなく 春風でもない風が、二人の周囲を焦れているように通り過ぎていく。

「だが、生きて それを成し遂げられるのが最善だ」
「それは、もちろん そうだけど」
「だから、これは死を覚悟した者が 心残りを断ち切るためにすることじゃないぞ」
「え」
春風になりきれない もどかしさを、瞬の髪に戯れることで解消しようとしているような微風。
その風を なだめるように右の手で瞬の髪を押さえ、氷河は瞬の唇に 自分の唇を重ねた。
瞬の髪に戯れていた微風が、その出来事に驚いたように どこかに逃げていく。

「氷河……」
「どうして 俺がおまえにこんなことをするのか、聖域での戦いが終わったら、その理由を教えてやる」
今はまだ自分たちの命の行く末を見極めることができないから、無責任なことは言えない。
星矢並みに暴虎馮河の白鳥座の聖闘士にしては 慎重な その考えを、瞬は気付いているのかどうか。
「うん……」
瞬は、そこにだけ春がやってきたかのように やわらかく温かい眼差しで、いつになく慎重な氷河の瞳を見詰め、はにかんだように やわらかく小さく頷いた。






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