問題の女性客の名は 花形みちる。 某大手芸能事務所と繋がりのある劇団の所属員。 夢は、舞台女優として大成すること。 が、役者の仕事だけで食べていくことは困難で、現在は 芸能事務所からまわってくる ささやかな仕事――セリフが一つ二つあれば ましなテレビドラマや映画のエキストラの仕事と 各種バイトで食いつないでいる。 知名度の低い役者の典型といっていい日々を送っている彼女が 瞬と知り合うことになったのは、突発で入った奇妙なバイトのせいだった。 「つまり、こちら様は、氷河と瞬せんせを別れさせたい人に雇われて、氷河の浮気相手を演じて、見事に玉砕した、売れない劇団員――というわけ?」 服田女史の身も蓋もない総括を聞かされた“売れない劇団員”が、一瞬 反抗的な目をして 唇を引き結ぶ。 そうしたきり、結局 彼女が反論に及ばず 肩を落としたのは、服田女史の総括が 完全に事実に合致していたからだったろう。 身も蓋もない総括をしてのけた服田女史が、更に容赦のない意見を披露する。 「瞬せんせに対抗しようなんて、その度胸は買うけど、それは無謀ってものよ。あなた、本気で氷河の恋人役なんて難しい役を 自分に演じられると思ったわけ? そんなの、いちばん綺麗だった頃のグレース・ケリーにも ローレン・バコールにも無理なことよ」 服田女史が 半世紀以上も前の銀幕のスターの名を出したのは、もしかすると、売れない劇団員への 彼女なりの思い遣りだったのかもしれない。 『それほどの無謀に、あなたは挑戦したのだ』と告げて、服田女史は、玉砕した女優志願の心を慰めようとしたのだ、おそらく。 服田女史の思い遣りに気付いているのか いないのか、玉砕女優志願の彼女は、消沈した声で 自らの無謀の弁明を始めた。 「私が演じる相手は瞬先生で、優しそうな人だったから……。騙したくはなかったけど、騙せそうだと思ったから……」 「氷河の前で演じるわけじゃないから、どうにかなると思ったわけ? それは逆でしょう。見込み違いっていうか、心得違いっていうか。瞬せんせが優しいのは事実だけど、洞察力のない お馬鹿さんが 人に優しくなんかできるわけないでしょ。あなた、いろいろ勉強不足で、経験不足よ。本気で女優になりたいのなら、もう少し 人間ってものを研究した方がいいわ」 服田女史は、どこまでも容赦なく言い募る。 瞬は、自分を それほどの人間だと思ったことはなかった。 が、それは さておき。 本来は 彼があまり好まない“騒がしい人間”に分類される服田女史を、氷河が 彼の店の客として受け入れている理由を、瞬は再認識したのである。 彼女は、人間というものを よく知っている人なのだ。 『馬鹿に付き合わされるのは ご免だ』『馬鹿のために費やす時間は持っていない』というのが氷河の口癖だったが、それは つまり、『賢明な人間となら 付き合ってやってもいい』ということ。 服田女史は、まさに賢明な人間――かなり騒がしいが――なのだ。 その賢明な服田女史が、売れない劇団員を いじめるのをやめて、瞬に素朴で根本的な疑念を提示してくる。 「で、それで、どうして瞬せんせの方が逃げ出すの。そういう事情なら、普通は逆でしょ。きまりが悪くて逃げ出すのは ミッチーの方よね」 「ミッチーって、誰のことです」 薄々(?)わかってはいるのだが、つい問い返してしまう。 服田女史は、全く悪びれていない答えを返してきた。 「誰って、そりゃ、売れない玉砕女優志望のことよ。氷河と瞬せんせの仲を裂こうとした人を“花形さん”だの“みちるさん”だのって敬称をつけて呼ぶわけにはいかないじゃない。だから、ミッチー」 「……」 理屈がすごいのか、センスがすごいのか。 服田女史の命名は 瞬の理解の範疇を超えるものだったが、彼女の疑念は 至極 妥当なものだと、瞬も思った。 なぜ 騙そうとした者ではなく、騙されかけた者の方が 逃げ出さなければならないのか。 実に全く その通りである。 だが 瞬には、そうしなければならない事情があったのだ。 なぜ そうしなければならないのか、瞬自身にも 合点のいかない事情が。 瞬にも説明の難しい――ある意味、理不尽な その事情。 その事情を説明してくれたのは、瞬が接触を避けようとしたミッチーその人だった。 |