翌水曜日、ミッチーは氷河の店に来なかった。
更に3日後の土曜日も、次の水曜日も、彼女の指定席だった店の最奥のテーブル席は空いたままで、2度目の土曜日には、それまで彼女のために遠慮していたのだろう別の常連客が その席に着いてギムレットを飲んでいた。
氷河の計画は図に当たったのか。
瞬は、氷河に確かめることはできなかった。
ともあれ、氷河の店は、そうして 常連客を一人 失ったのである。



それから半月後。
ミッチーとの再会を ほぼ諦めていた瞬が 氷河のバーに行くと、服田女史がミッチーからの預かり物だと言って、一通の封筒を瞬に手渡してきた。
中には、彼女が猫のキャピュレット夫人を演じる舞台のチケットが2枚だけ。
他に手紙やメモの類はない。
「ミッチーってば、私が来るのを待ち伏せしてたみたいだったわね。『店の中に 入らないの』って訊いたら、『入れない』って。そのチケットも、『お仕事が忙しいでしょうから、来るのが無理なら、興味のありそうな人にあげてください』って、言ってたわ。ストーカーにしては遠慮がちに」
「そうですか……」
封筒を受け取って、瞬は カウンターの氷河に ちらりと視線を投げたのだが、氷河は その一瞥に気付いた様子も見せなかった。

瞬の沈んだ声音に何事かを察したのか、服田女史が、
「氷河は お店を休めないし、瞬せんせも お仕事が忙しいんでしょ。そのチケット、私がもらっていい? 黒木くんを引っ張って、行ってみるわ。私、そのうち、舞台衣装も手掛けてみたいと思ってるのよね」
と、瞬に言ってくる。
暫時 迷ってから、瞬は服田女史の厚意――厚意だろう――に甘えることにした。
一度 瞬に渡したものを再度 受け取って、服田女史が頷きながら微笑を作る。
「ミッチー、ストーカーをやめたせいか、以前の 思い詰めた様子がなくなって、何か吹っ切れたような顔してたわよ。瞬せんせに連れていってもらった舞台を観て、主役っていうものが どんなものなのか、改めて考えてみたんだって言ってた。それで、キャピュレット夫人の役柄を掘り下げて、キャピュレット夫人には キャピュレット夫人が主役の人生があったはずだって思って、いろいろ前向きに考察してみたんだって。母親としての苦悩とか、女としての考えとか――夫に従って、その時代の名家の奥方の手本として、自分の人生に疑いを持たずに生きていた賢夫人が、娘の恋と死で何を感じ、何を考え、何を得て、何を失い、どう変わったのか、変わるのか、そんなことをね」
「あのバレエが、少しでも花形さんの役に立ったのなら、よかったですけど――」

「すごく役に立ったみたいよ。昨日がゲネプロで、初めて通しで演じたんだって。それを観た演出家の先生が、今度はキャピュレット夫人が主役の脚本を書くって言い出したとかでね。ミッチー、次の公演では念願の主役を演じられることになったみたい。何もかも 瞬先生と氷河のおかげだって言ってた。ありがとうございました――って」
「主役……」
ミッチーが ここにいなくてよかったと、瞬は思った。
一点の曇りも 一片の ためらいもない晴れやかな気持ちで『おめでとう』を言うことができるという自信を、今は瞬は持てなかったから。

異様に勘がよく、細やかな気遣いのできる服田女史が、今日は瞬の隣りの席に陣取ろうとしない。
瞬は、カウンターのいちばん端の席に 腰を下ろした。
「もしかしたら、花形さん自身、気付いていなかったのかな。気付いたから、ここに来なくなったのかな……」
瞬の小さな呟きが聞こえていないはずはないのに、氷河は無言でいる。
無視されたのだとは思わずに、瞬は言葉を続けた。
「氷河は気付いていたね」
「何をだ」
「花形さんが、氷河を好きでいること」
氷河は、また無言。
では、やはり氷河は気付いていたのだろう。

彼女は、氷河を好きだった。
そして、彼女の心が氷河に向くように仕向けたのは、他ならぬ瞬自身だったのだ。
『氷河は、冷たい振りをしているけど、それは 人と深く関わるのを恐れているだけなんだ。誰かを深く愛するようになることを恐れているだけ。本当は とても熱くて、情が深い。氷河の冷たさや素っ気なさは、むしろ氷河の優しさなんだよ』
『彼は寂しがりやなんだ。だから、寂しくなることを恐れて、一人になることを恐れて、最初から一人でいようとする――』
『僕は、本当の氷河を知っている。本当の氷河を愛してる。僕は、あの孤独で臆病な魂を抱きしめて、温めてあげたい。氷河を孤独から解放してやりたい』
瞬が、彼女に知らせてしまったのだ。
一組の満ち足りた恋人たちの別離を画策した人物の罠に嵌められて、他の人間なら気付かない、氷河の真実の姿を。
知ってしまった その姿に、彼女は興味を引かれ、そして 心まで引かれることになってしまったのだろう。

「花形さんが 本当に欲しかった華は、万人に認められる華じゃなくて、氷河一人に認められる華だった。だから、彼女は僕に固執していたんだ」
瞬は 氷河が好きだった。
そして、氷河もまた 同じ思いを自分に向けてくれていることを知っている。
二人の恋は、二人の存在だけで 閉じられた輪のように完璧で、他の要素が入ってくる必要がなく――瞬は、いつのまにか、その中に入りたがる人間がいるかもしれないということを考えられなくなってしまっていたのかもしれなかった。
あまりに氷河が、自分だけを見詰めているから。

「勘繰りすぎだ」
「そうかな」
「もし そうだったとしても――ならば、なおさら、あの女は俺には邪魔者だ」
氷河にとって ミッチーは、彼の恋の輪はもちろん、彼の世界に入ることも許容できない人間だったのだろう。
その言葉通りに、ミッチーは、氷河には邪魔者以外の何ものでもなかった。

「氷河は時々、本当に冷たい」
「俺が人に冷たかったとしても、それは おまえのせいじゃない」
「……」
それは、氷河の言う通りである。
瞬は、自分がいるせいで 氷河が他人に冷たく接しているのだと うぬぼれるつもりはなかった。
ただ、『おまえのせいじゃない』と言ってくれる氷河の優しさが、瞬は 切なかったのである。
自分の恋人にしか優しくない氷河が。
その冷たさが 氷河の優しさであり、氷河の誠意なのだとしても――優しい振りをしないことが、氷河の誠心なのだとわかってはいても。

「氷河が ロミオとジュリエットの公演を お膳立てしたのは、花形さんのためだよね?」
「もちろん、そうだ。俺は親切な男だからな」
氷河がそう言うのは、瞬のため。
それは瞬のための嘘。
氷河は ただ、彼女を自分のテリトリーから追い払いたかったのだ。
瞬のため、自分の恋のために。
ミッチー排斥の方策として思いついた計画が、たまたま ミッチーのためになるものだったから、氷河は、瞬に その片棒を担がせた。
だが、もし ミッチーのためにならない方法しか思いつけなかったなら、氷河は それを 瞬に知らせず、自分一人で成し遂げてしまっていたに違いなかった。
氷河は、何より自分の世界を守りたがる男だった。
その世界に住むことを許した人間に対しては、驚くほど情が深いのだが。

そんな氷河を責めることは、瞬にはできなかった。
おとぎ話のように 完全に綺麗な結末は、現実の世界にはないのだ。
現実の世界では、物語は いつまでも続くのだから。
「氷河。少しだけ――」
傲慢なことだと思いながら、心の中でミッチーに『ごめんなさい』と謝る。
「少しだけ強い お酒をちょうだい」
「おまえは、そういう飲み方をしては駄目だ」
瞬の願いを、氷河は 言下に冷たく却下する。
そうして 瞬の前に出されたのは、いつも通りに 甘く優しい飲み物だった。






Fin.






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