黒衣の女性に瞬が導かれたのは、城の広間――らしき場所だった。 さほど広くもない その空間を、瞬が“部屋”だと思わなかったのは、正面最奥に大きく いかめしい椅子が一脚あるだけで、他に家具らしきものが そこには一つもなかったからだった。 壁もまた壁でしかなく、いかなる装飾も施されていない――絵の一枚も飾られていない。 薄明るい空間に、本当に椅子が一脚 置かれているきり。 その椅子に腰掛けている人間もいない。 黒衣の女性は その椅子の前に瞬を立たせると、 「ここで お待ちください」 と告げて、彼女自身は、たった今 彼女と瞬が入ってきた扉の前に退いた。 この椅子に 城の主人がやってくるのを待てということなのだろう。 いったい、それは誰なのか。 瞬は 黒衣の女性に尋ねたかったのだが、彼女は沈黙していることが自分の務めだとでもいうかのように、瞬に質問をすることを許さないような空気で 自らを包んでいて、瞬は結局 彼女に何を尋ねることもできなかった。 高い背もたれとアームに 禍々しい彫刻が施された 重々しい椅子。 いったい この椅子に座る権利を有する人間は どういった人物なのか――。 そう思いながら 瞬が その椅子を見詰めていると、やがて そこに ぼんやりとした人影が浮かび上がってきた。 この椅子は、どうやら人間のためのものではなかったらしい。 ぼんやりした影が 徐々に明確な輪郭を描き始める。 それは やがて若い男の姿になった。 瞬を この場に案内してきた女性同様、肌以外のすべてが漆黒の男。 身に着けている長衣も、髪も、瞳も、この世に これほど黒い黒色があったのかと 驚かずにいられないほど 深い黒。 ただ、その瞳は、黒衣の女性のそれが 優しさと厳しさを たたえていたのとは対照的に、寂寥と冷たさを たたえている。 それが実体なのか幻影なのかは わからないが、面差しは素晴らしく端正で、その整った容姿が 一層 彼の冷たさを際立たせていた。 その美しい男が、あの声で瞬に尋ねてくる。 「重要なのは、そなたの意思だ。そなたは、自分の意思で 余のものになるために ここにやってきたのだろうな?」 ここに来ると決めたのは 瞬の意思だが、瞬は決して 自ら望んで ここに来たわけではない。 そういう状況を『自分の意思で』と言っていいのかどうかを 自分では判断できず――だから 瞬は黙っていた――問われたことに答えを返さなかった。 瞬の返答を待たずに、漆黒の男が言葉を重ねる。 「そなたと そなたの仲間たちのために、既に白銀聖闘士のほとんどは命を落とした。この上、相当数の黄金聖闘士までが命を落とすことになったなら、聖域の戦力は 更に減ずる。アテナの軍は、もはや 軍とも呼べないものになるだろう。敵と戦うことはおろか、己れを守ることすら危うい。アテナを守ることも 地上の平和を守ることも叶わぬ。聖域が そのような ありさまになることを、そなたは そなたの身一つで回避することができるのだ。そなたは もちろん、そなた自身の意思で、喜んで ここに来た。そうであろう?」 瞬の心を見透かしているような様子の男に そう言われ、瞬は 初めて気付いたのである。 “喜ぶ”という行為は、意思によって生むことのできる行為ではないのだということに。 喜んでいないのは、感情か心――意思では支配できないもの――で、人は、どれほど強く喜びたいと願っても 、自分の意思で“喜ぶ”という行為を行なうことはできないのだ。 「僕は僕の意思で ここに来ました。それ以上のことは望まないでください。それとも、それでは何か都合の悪いことがあるんですか」 『人間の分際で、神に質問をするな』 そう言って、彼は人間の質問を退けるのだろうと 瞬は思っていたのだが、黒衣の男は その言葉を繰り返さなかった。 まるで瞬の質問を楽しんでいるかのように。 「不都合はある。だが、今は まだ そこまでは望むまい」 彼は どうやら、瞬の質問を受け付けてくれるらしい。 そう判断して、瞬は質問を重ねた。 瞬が不思議でならなかったことを、彼に問うてみる。 「なぜ 僕なのかを教えてください」 それが、瞬は不思議だった。 犠牲や生贄というものは、その代償として得られるもの程度には 価値あるものであるべきだろう。 瞬には、自分が 黄金聖闘士複数人の命に釣り合う犠牲だとは思えなかったのである。 だから、この取り引きには何らかの裏があるような気がしてならなかった。 取り引きや契約というものは、その契約を結ぶ当事者たちが 互いの持つ情報を 互いに開示した上で結ばれるのでなければ、不正不当だろう。 神を自称する者が、これほど自らに不利益な契約を結ぼうとする理由を、瞬は知りたかった。 黒衣の神が、事もなげに答えてくる。 「そなたが美しいからだ。他に理由などあるか」 全く説得力のない理由。 瞬は、彼は 彼の生贄を揶揄しているのかと疑った。 でなければ、彼は 真実の理由を隠すために策を弄しているのだ――と。 瞬に不信の目を向けられた黒衣の神が、楽しそうに冷ややかに微笑する。 「余は、地上世界のことになど興味はない。人間など滅んだ方がよいだろうとは思うがな。余が興味があるのは、余の楽しみ、余の快楽のみだ。そなたが美しいので、余の側に置き、弄びたい。そなたが清らかなので、余の手で汚したい。余は、余の好みに合致した遊戯を楽しみたいのだ。“快楽のため”。これほど高雅で重要な理由はないと思うが」 「……」 遊戯のため。快楽のため。 そんなことのために、わざわざ こんな真似をする者――神――がいるものだろうか。 快楽など、味わった次の瞬間には 形も残さず消えてしまうもの。 それは、瞬の価値観では理解不能な理由だった。 黒衣の神が、そんな瞬を見やり、さもありなんとばかりに頷く。 「人間の価値観では理解できまい。余は、人間を弄び、神としての優越を確信して悦に入りたいのだ」 「でも、僕は ただの無力な一人の人間にすぎません」 「だが、美しい。余は そなたの美しさに焦がれている。恋をしていると言っていい」 恋とはまた、奇妙な言葉を持ち出したものだと、瞬は胸中で嘆息した。 おそらく彼は 人間ごときの質問に真面目に答える気がないのだろう。 だから 彼は、そんな言葉を持ち出すのだ。 それ以前に――瞬が知っている恋と 彼の言う恋は、全く違うもののようだった。 瞬が知っている恋は、彼の言う恋のように、冷ややかなものではなく、もっと熱い――気配を感じるだけで火傷をしそうなほど熱いものだった。 どう考えても 彼は、“快楽”や“遊戯”に“恋”という名をつけて、その言葉を用いている。 「そんなもののために――正義でも、多くの人の命でも、多くの人の幸福でもないもののために、神である あなたが 貴重な時間や手間を費やすの」 そう問い返した瞬に、黒衣の神は なぜか機嫌をよくした――ようだった。 楽しそうに、同時に 侮っているように、瞬の顔を窺ってくる。 「恋の価値と力を知らぬのか? 恋のために 大いなる偉業を成し遂げた者は、人間界にも数多くいるだろう。恋のために身を滅ぼした者も多い。欲望に溺れ、国を滅ぼした王侯君主は枚挙にいとまがない。それは ごく普通、実に ありきたりなこと。そなたとて、アテナや人間界の保全のためだけではなく、仲間の嘆きを見兼ねて、余の許に来たのであろう」 「……」 恋の価値と力なら、瞬とて知っていた。 瞬はただ、彼の言う“恋”は“遊戯”にすぎないと思っているだけだった。 恋の力なら、瞬は もちろん知っていた。 だが、それは、地上の平和や そこに生きる人々の命に優先させていいものではない。 少なくとも、聖闘士の恋はそうだろう。 いずれにしても、彼と“恋”について話し合っても、用いる言葉の意味が違い過ぎて、まともな会話が成り立ちそうにない。 瞬は、質問を変えた。 「弄び汚すというのは、どういうこと」 瞬が真面目に問うたことに、黒衣の神は不真面目な笑いを返してきた。 その上、 「愉快な質問だ。さすがは 地上で最も清らかな魂を持つ者だけある」 断言する形で彼が口にした言葉が、またしても瞬には理解できないもの。 “地上で最も清らかな魂を持つ者”――それは いったいどういうことなのか。 言葉通りの意味だとしたら この神は狂気に侵されていると、瞬は思ったのである。 人間の魂がどれほど、どのように清らかなのか、あるいは 汚れているのか。それを判定し比較できる客観的な尺度があると、彼は言うのだろうか。 それとも神には、その能力が備わっているのだろうか。 もし そうであるのなら、彼は その能力を誤って用い、誤った結論に達したのだとか思えない。 反駁し問うたところで、彼は せいぜい、『人間の価値観では判断できない』程度の答えしか与えてくれないように思えたので、瞬は その件に関しては沈黙を守った。 瞬が口にした質問に、漆黒の神が答えてくる。 「端的に言えば、人間の尊厳とやらが踏みにじられるということだ。自由を奪われ、神と人間は平等でないこと、友情や愛情など存在しないことを、他者によって思い知らされること。そうだな。性的屈辱によって、その肉体を汚され、その意思を認められず、誇りを奪われ、余の玩具となる。そうして、最後に ぼろきれのように打ち捨てられる――というのはどうだ」 そう言いながら、漆黒の神が 瞬の反応を窺ってくる。 しかし、瞬は動じなかった。 それはアンドロメダ座の聖闘士が――城戸邸に集められた子供たちが――これまで経験してきたことと大差のないことである。 性的屈辱が、権威的なもの 暴力的なものであっただけの違いしかない。 もう一つ、違いがあるとすれば、城戸邸に集められた子供たちは、希望を捨てさえしなければ 試練に打ち勝ち、生き延びることができた――ということくらいだろうか。 それは大きな違いなのかもしれなかった。 今の瞬には、あまり意味のない違いだったが。 瞬は、自分の意思で ここに来た――自分の自由意思で、彼の生贄になることを選んだのだ。 そういう意味において、瞬の尊厳は、他者に踏みにじられることはない。 「本当にそれだけ? 本当に、僕一人のことで済むんですね?」 「それだけだ。美しく清らかな瞬」 漆黒の神は、瞬が恐れ おののき、泣き叫ぶことを期待していたのではなかったようだった。 取り乱すことなく応じた瞬に、彼は満足そうに唇の端を上げ微笑した。 「神は嘘はつけぬ。約束を違えることもできぬ。そなたが そなたの意思で 余に その身を捧げる限りにおいて、余は約束を守る。そなた以外には ただ一つの犠牲を払うこともなく、アテナは 聖域に君臨することになるだろう」 「わかりました」 それだけ確かめられれば、十分である。 瞬は 自分の意思で、我が身を漆黒の神に捧げることを決めた。 |