「瞬。これから菖蒲の花を見に行かないか」
ラウンジに入ってきた氷河は、いつも通り、愛想があるとは言い難い顔と声で、瞬にそう言った。
瞬が、こちらは愛想いっぱいの笑顔で、
「菖蒲? 東御苑? 石神井公園?」
と、氷河に尋ね返す。
「御苑の方が見頃のようだ」
「もう、そんな時季なんだね。つい この間まで雪が降っていたのに。菖蒲の花を見たあと、ケーキ屋さんに寄ってもいい?」
瞬のその言葉に、氷河は、それでなくても愛想のない顔を、明確な渋面にした。
「俺は あの甘い香りが苦手なんだ。知っているだろう。普通のカフェにしてくれ」
「この間、グエルチーノ展に行った時には、氷河の希望を()れて コーヒー専門店に入ったでしょ。今度は僕の番」

氷河は、いつも通りに無愛想。
瞬も、いつも通りに、人当たりがよく 親しみやすい笑顔。
いつも通りの二人なのに、そんな二人の様子が、今の星矢には 異様で異質な何かに見えた。
妙に馴れ馴れしく、気安い――気安すぎるほど 気安い。
星矢がぽかんとして、だが どうしても異様で異質な二人から目を逸らせずにいると、そこに星矢がいることに初めて――やっと――気付いたらしい氷河は、不愉快そうに その眉をひそめた。
「なんだ?」
「あ、いや。おまえら、まるでオツキアイしてるみたいだなー……とか思ってさ」
「知らなかったのか? 俺は てっきり、瞬が報告しているものとばかり思っていたが」
「へっ」
「いやだ。そんなこと、どんな顔して報告すればいいの」

どんな顔をすればいいのか わからないらしい瞬が、恥ずかしそうに氷河の腕に しがみつき、その顔を隠す。
いつから そんなことになっていたのか――どうやら二人は 本当に オツキアイというものをしているらしい。
あまりの急展開に、星矢は もはや 仲間たちについていけそうになかった。
星矢という観客を無視して、氷河と瞬は自分たちの舞台に夢中である。
「東御苑なら、帰りにシェ・シーマで、クレーム・アンジュとモンブラン!」
「ああ、わかった」
いかにも しぶしぶという(てい)を装いながら、氷河の目は 氷雪の聖闘士のそれとも思えぬほど温かい。
仏頂面を保ちながら、よく そういう目でいられるものだと感心しそうになるほど、氷河は 眼差しだけが緩みきっていた。
春真っ只中と言わんばかりの二人が、いちゃつきながら(?)ラウンジを出ていくと、星矢は、自分の足で立っていることもできそうにないほど激しい疲労感に襲われ、すぐ横にあった三人掛けソファの中央に ほとんど投げ出すようにして、自身の身体を沈み込ませたのである。

「あの瞬が 氷河に復讐するかもしれないなんて心配してたなんて、俺って、正真正銘の馬鹿」
「一概に そうとも言えまい。愛憎は表裏一体というし、恋の緊張感と復讐の緊張感が似ているのは当然のことなのではないか」
「紫龍! おまえが言うなよ! おまえにだけは慰められたくない! 何が一服の清涼剤だ! 俺はクールミントガムか !? それとも口内洗浄剤なのかよ!」
「いや、おまえの勘違い振りは 実に爽やかで、すがすがしいものだったぞ。打ち続く戦いで すさんだ心が 澄んだ谷川の水で洗われるようだった」
そんなことを真顔で言うから、紫龍は(たち)が悪い。
どうして自分は――自分だけが――こんなにも純真なのかと、星矢は目一杯 落ち込むことになった。
全く悪びれた様子もなく、もちろん真顔で、紫龍が言葉を続ける。

「氷河は、瞬が一輝を庇うから、瞬に愛される一輝を妬み、憎み、倒そうとした。それが愛情でも憎悪でも、瞬が自分だけを見ていてくれるなら、氷河は それでよかったんだと思うぞ。瞬の目と意識を、一輝の上から自分の方に移すことができさえすれば。たまたま 瞬が 人を嫌ったり憎んだりする能力に恵まれていなかったから、こういうことになっただけで。――恋は人を策士にする」
「氷河の作戦勝ちかよ。どうせなら、バトルの場でも、その戦略の才能を発揮してくれればいいのに」
「氷河の才能が優れているのは、愛の分野に限られているんだろう」
「呆れた男だ」
「愛と憎しみでは、愛の方が勝つということは、氷河は知っていたと思うがな。他の人間なら いざ知らず、相手は瞬なんだ」
紫龍の解説は、全く慰撫にならない。
もちろん、謝罪にも言い訳にもなっていなかった。

「つまり、瞬が氷河に復讐しようとしてるって、本気で思い込んで、真面目に心配してた俺だけが馬鹿だったってことじゃん」
「まあ、そういうことだな」
自称クールの氷河より はるかに冷酷に、紫龍が真顔で頷く。
正しい結論なのだろうが、それは星矢には あまりに空しい結論だった。






Fin.






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