修道院内には、ほとんど人気がなかった。
規模の大きい他の修道院では、建物の最奥にある至聖所に至る廊下の両側に修道士たちのための個室があって、真夜中でも 睡眠欲に逆らって神に祈りを捧げている男たちの気配があったんだが、この修道院には その気配がない。
昼間 下調べに来た時には、5、6人ほどの修道士が作業場でイコンを作っていたから、無人のはずはないのに。
自分の部屋ではなく、聖堂で祈っているのか。
あるいは、外で何か悪さでもしているのか。
まあ、人がいないのは、至聖所の中を確認したい(だけ)の俺にとっては好都合だから、俺は 渡りに船とばかり、そのまま 最後の修道院の最後の至聖所に足を踏み込んでいったんだが。

5メートル四方の広さを持つ、最後の至聖所。
悪い予感というものは、必ず当たるもんだ。
そこには何もなかった。
より正確に言うなら、ハーデスにつながるようなものは何もなかった。
ハーデスの実体はもちろん、彼の従属神が封印された壺も、彼自身の神聖衣も、豊穣の角も、何ひとつ。
中央の台座にあるのは、細く短い棒状の錆びた金属。
イエスの手足を十字架に打ちつけた聖釘(の偽物)なのだろうことは、脇に置かれている説明書を見なくても察しがついた。
他の修道院の至聖所のように宝石類はなく、木製のマリアの立像が 壁際に一体 あるのみ。
アトス自治修道士共和国は、嵐に遭って この国の浜に流れ着いたマリアが、この地の異教の偶像を一瞬にして打ち倒し、この地に祝福を与えた――っていう伝説のある土地だから、古いマリア像と偽の聖遺物しかない至聖所のあり様は極めて妥当なんだが、これはまずい。
大いに まずい。

『何も見付けられなかった? それで手ぶらで帰ってきたの? まあ、氷河。あなたったら、なんて立派な仕事をしてくれたんでしょう!』
マリア像にアテナの姿が重なり、アテナの声が俺の脳内に聞こえてきて、俺は ぞっとした。
おい。俺は本当に手ぶらでアテナの許に帰ることになるのか?
冗談じゃないぞ。
ぞっとして、俺は つい、手にしていたランタンを取り落としそうになった。
そして、それが幸いした。

その炎の揺らめきで、俺は気付いたんだ。
修道院の最奥にある、窓のない至聖所。当然、空気の流れは、俺が開けた扉から入る空気と 室内の空気の温度差によってのみ生じるはずなんだが、この至聖所には それとは別の微かな対流があることに。

マリア像の背後の壁。
呆れた話だ。
その身に原罪を負った人々を救うために前方に差しのべられているマリア像の手が、隠し部屋の扉の取っ手になっていた。
その取っ手を押し下げると、現われたのは、至聖所の半分ほどの広さの部屋。
造り自体は何ということもなく、他の修道士用の小部屋と大差はない。
他の修道院の部屋同様、寝台と 小さな机と椅子があるきり。
明かり取りには小さすぎる窓があるのは、空気の入れ換えのためだろう。
この国でいちばん古い修道院の至聖所の奥の部屋――もしかしたら、それは、最初に この地に修道院を建てた、この国の始祖が使っていた部屋なのかもしれなかった。
掃除が行き届いているところを見ると、今も その部屋は使われているらしく――。
『らしく』も何もない。
その部屋は、現在も使用されていた。


寝台に一人の人間が眠っている。
手にしていたランタンを寝台の枕元に近付けて――そして、俺は、茨に閉ざされた城の中でオーロラ姫を見付けたデジレ王子の気分を味わうことになったんだ。
隠さなければならないわけだ。
そこにいたのは、眠り姫――女人禁制の この国にいてはならないもの。
世の汚れを知らぬまま、その清らかさが失われることを恐れた神によって隠された美しく可憐な姫。
そこに眠っていたのは、清らかな一人の少女だった。

なぜ彼女が清らかだと思ったかというと、眠っている彼女の顔立ちが、実に美しく、可愛らしく、優しげだったから。
まあ、俺も男だから、美少女には清らかでいてほしいという 短絡的かつ自分勝手な願望を、短絡的かつ自分勝手に抱いたわけだ。
俺は、彼女から目を離せなくなり、その面立ちを もっと近くで、もっと はっきり確かめたくなり――近付けてはならないところまで、ランタンを近付けてしまった。
光を感じたんだろう。
彼女の睫毛が微かに震え、俺が目覚めを誘う口付けをする前に、せっかちな眠り姫は その目を開けてしまった。
そして、俺は、女人禁制の国に美少女を発見した時より更に大きく激しい驚きに襲われることになったんだ。

「瞬……」
澄んだ瞳――冷酷な運命によって引き離されていた この10年間、一時(いっとき)たりとも忘れたことのなかった澄んだ瞳。
眠り姫は、俺の瞬――俺が探し続けていた俺の初恋の人だった。
もう10年も前、俺が8歳の時に離れ離れになったきりの、俺の小さな可愛い瞬だったんだ。

「瞬……なぜ、おまえが こんなところに――」
いや、そんなことはどうでもいい。
瞬が ここにいる理由を知ることは あとでいい。
俺には、瞬を見付けだしたら 最初にすると決めていたことがあった。
俺は、すぐさま それをした。
つまり、“瞬を抱きしめて離さない”ということを。
もちろん、再会したばかりで、寝台に横になっている瞬の上に覆いかぶさっていくなんてことはできないし、瞬に火傷をさせるわけにもいかないから、左手に持っていたランタンを寝台の脇の棚の上に置き、右手で瞬の上体を引き起こしてから。
それら一連の作業を、俺は、光速とまではいわないが、音速レベルの素早さで やってのけたから、瞬きを一度するまもなく 俺に抱きしめられてしまった瞬は、その時 己が身に何が起こったのか、よくわかっていなかったかもしれない。

「瞬、探したんだぞっ……!」
10年。
マーマが死んで、おまえの行方が わからなくなって10年。
こうして もう一度 おまえを抱きしめるためだけに、俺は その10年を生きてきたんだ。
聖闘士になったのなんて、ただの成り行き。
おまえを見付けられない苛立ちを紛らすための、切ない悪足掻きにすぎない。
「も……もしかして、氷河……?」
「憶えていてくれたのかっ 」
もう10年も前。
俺たちが一緒にいられたのは、ほんの数ヶ月の間だけだったのに。

俺を連れて、マーマがどこに行こうとしていたのかを、俺は知らない。
初めて乗った船が 見知らぬ国の沖で沈み、救命ボートに乗ることができたのは俺一人だけだった――マーマは、俺の席を確保するために 沈みゆく船の甲板に残った。
マーマの遺体を引き揚げることは不可能だと わかるまでの数ヶ月を、俺は その国の教会に併設されている孤児院で過ごした。
そこで出会ったのが瞬で、マーマのところに行くと泣きわめく俺を、瞬は優しく抱きしめてくれたんだ。
この綺麗な瞳を涙でいっぱいにして。

ずっと一緒にいられると思っていたのに、ある日 突然、瞬は他の施設に移され、俺も生まれた国に戻されることになって、それきり。
それから 俺は、ギリシャ独立にロシアが干渉した関係でギリシャに渡り、またロシアに戻り、聖闘士になり、しばらくフランスで暮らしたりと、まあ、色々あった。
色々あったが、とにかく それらのことは何もかも、こうして瞬に巡り会うための試練、ただの前座の出来事にすぎなかった。
これは運命だ。
俺たちの恋は、神も認めてくれている(どこの神かは知らないが)。
神が祝福してくれているんだ。
だからこそ、俺たちは こうして再び巡り会うことができた。
だからこそ、瞬は 俺を憶えてくれていた。
幼い頃、たった数ヶ月、共に暮らしただけの俺を。

「こんな眩しい髪の持ち主、他にいるわけがないもの……」
「そうだ。おまえの氷河だ」
子供の頃も可愛らしかったが、あれから10年を経て、瞬は 俺の予想以上の美少女になってくれていた。
なのに、澄み切った瞳は あの頃のまま。
これは奇跡だ。
「え? 僕の?」
「ああ。すぐに ここから逃げ出そう」
女人禁制の国に いてはならない人を、国の外に連れ出す。
俺のすることの正当性は、神も認めてくれるだろう(どこの神かは知らないが)。
この胡散臭い国の外に瞬を連れ出し、俺は、瞬と共に過ごすことのできなかった10年の時を取り戻すんだ。
ついに その時が来た喜びに、俺はすっかり有頂天。
心も頭も足も、俺は浮かれ切っていた。
なのに。

「そ……そんなわけには――」
「貴様、そこで何をしている」
なのに――。
俺と瞬の恋は、神も祝福するもの。
俺と瞬が結ばれて幸福になることは、運命によって定められたことだっていうのに、これはいったい どういうことだ。
俺と瞬の行く手を遮る障害物が、突然 その場に現われやがった。






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