氷河にどんな美点があっても、たとえ 氷河が完全無欠の男であっても――要するに、何が何でも氷河を瞬から引き離したい瞬の兄。
最愛の弟が 顔以外に取りえのない男と共にいる現状を、どうあっても認めることができず、火焔地獄の炎もかくやとばかりに怒りの炎を燃やしていた瞬の兄。
そんな瞬の兄が、怒りどころか あらゆる感情を失ったかのように腑抜けた顔を星矢たちの前に見せることになったのは、星矢が変則幻魔拳の効果を我が身で確認した日の翌朝のことだった。

普通にしている時にも常に 身辺を緊張した空気で包んでいる男が、心からも身体からも力が抜けきっている様子で ぬぼ〜っと星矢たちのいるラウンジに入ってくる。
見ているだけで、こちらの心身からも力が抜けていくような鳳凰座の聖闘士の姿は、まるで何かを間違った ゆるキャラである。
否、今朝の一輝に比べたら、彦根市のひこにゃんや 熊本県のくまモンの方が はるかに明瞭な存在感と緊張感を有した 凛々しく厳格な生き物だった。
昨夜までは、よく火傷をしないものだと感心したくなるほどに燃え盛っていた一輝の怒りの炎は どこに行ったのか。
昨夜から今朝までの数時間の間に、いったい一輝の身に何が起きたのか。
訝りつつ、星矢は、『おはよう』の代わりに、
「やっと諦める気になったのかよ」
という、朝の挨拶を投げかけた。

一輝から、『諦めるなどという言葉は、俺の辞書には載っておらん!』という答えが即座に返ってこないところが、既に おかしい。
紫龍が『おはよう』の代わりに口にした言葉は、
「夕べ、何かあったのか」
だった。
夕べ あった何かを隠す気力も持てないでいるらしい一輝は、およそ彼らしくない声音で――時代劇調ではなく、メソッド演技調の口調で――問われたことに、力なく答えてきた。
「夕べ、就寝直前の瞬に例の変則幻魔拳を打ってみた。瞬は、氷河の部屋に入っていった」
と。

「……」
「……」
ごく短い、事実だけの報告。
しかし、その力ない短い報告だけで、星矢と紫龍は すべてがわかった――より正確に言うなら、わかったような気がした――のである。
どうしても現状に我慢ができず、一輝は 最愛の弟の脳を操ることをしてしまったらしい。
そして、その結果 確認された一つの事実。
その事実が、一輝から すべての力を奪ってしまったのだ。
人間の美醜の判断ができなくなる拳を受けても、瞬は何も変わらなかった――という事実が。

その事実が意味すること。
それは、何よりもまず、瞬は面食いではなかったということだろう。
瞬が面食いでないのなら、もしかしたら氷河は、星矢にとっての“食い物の恩義”に匹敵する何かを持っている男なのかもしれないという可能性が生じてくる。
だとしたら 一輝は、氷河の顔を殴って その鼻の骨を折っても、瞬を氷河から引き離すことはできない――ということになるのだ。
氷河が美点だらけで欠点なし、完全無欠の男だったとしても、瞬から氷河を引き離したい一輝には、それは衝撃的な事実だったろう。
彼は、最愛の弟から 気に入らない男を引き離す大義名分を失い、かつ、その術も見い出せない状況に追い込まれてしまったのだから。

「やっぱ、氷河は 途轍もない床上手なんじゃないのか」
どれほど腑抜けていても、アテナの聖闘士。
何かを間違った ゆるキャラ状態になっていても、一輝は一輝である。
彼が 仲間の同情を欲しているとは思えないので、星矢は とりあえず軽いジョークで 一輝を突いてみた。
「俺を本気で怒らせるなよ」
今一つ、二つ、三つほど 力のない声で、一輝が そのジョークに応じてくる。
「瞬じゃあるまいし、おまえに本気で怒られても、恐くも何ともねーぜ」
『まして、今のおまえでは』と続けないのは、武士の情け。
そして、星矢が、
「もしかして、瞬は単に ものすごーく趣味が悪いだけなんじゃないのか」
と言ったのは、もはや一輝には そう考えて諦める以外に道はないのではないかと考えてのことだった。

「僕がどうかした?」
タイミングがいいのか悪いのか、ちょうど そこに瞬が登場する。
瞬の隣りに氷河がいるのは いつものことなのだが、今朝に限っては それは 瞬の兄の心を深く傷付けることだったのだろう。
怒りの炎を燃やす力はおろか、口をきく力も 不機嫌になる力もないというかのような様子で、一輝は すぐ そこにあった肘掛け椅子に我が身を放り投げた。

こうなれば、一輝の仲間が彼のためにできることは、瞬の悪趣味振りを確認して、瞬の兄を諦めの境地に導いてやることだけである。
“諦める”という行為は アテナの聖闘士にあるまじきことだが、鳳凰座の聖闘士なら、諦めて燃え尽きた灰の中からでも 見事な復活を果たしてくれるはず。
そう信じて――星矢は、瞬に尋ねてみたのである。
「瞬、おまえ、好みのタイプ――っていうか、理想のタイプってあるか?」
と。
瞬からは、即座に、
「え? 僕の理想は兄さんだよ。もちろん。決まってるでしょ」
という答えが返ってきた。

途端に 瞬の横にいた金髪の男が むっとした顔になったが、星矢は そんなことは 綺麗さっぱり無視してのけたのである。
今 ここで、氷河の相手を始めたら、それでなくても面倒な事態が 更に ややこしいことになるから――ではない。
“理想のタイプは一輝”と言い切る瞬を悪趣味と断じることは、一輝から復活のための力を奪うことになるだろうと、それを案じたからでもない。
星矢は ただ不思議だったのだ。
瞬から 瞬の理想のタイプを知らされた星矢は、その瞬間に、ある一つの素朴な疑念に囚われ、他のことは どうでもよくなってしまったのである。
星矢が囚われた素朴な疑念。
それは、
「理想のタイプが一輝なのに、なんで氷河なんだよ?」
という疑念だった。

「人が、理想のタイプの人間を好きになるとは限るまい。理想以上の人間が すぐ側にいたら、当然 そっちの方を好きになるに決まっている」
瞬の横で、氷河が何やら思い上がったことを言っていたが、星矢は そんな声は聞こえなかった振りをした。
そして、瞬は――瞬は、ごく あっさりと、氷河の言を否定したのである。
星矢の疑念を奇異に思っている様子で、瞬は、
「僕は、ちゃんと理想のタイプの人を好きになったよ。氷河が好きなんだもの」
と、明るく軽い口調で言ってくれたのだ。

「へ?」
瞬の言葉の意味を理解しかねて、星矢が間の抜けた声をあげる。
氷河と一輝と紫龍は、それぞれの場所で、揃って眉根を寄せることになった。
瞬だけが、仲間たちの反応に気付いたふうもなく、明朗かつ軽快である。
「氷河は 兄さんに似てるもの。ちょっと不器用で、愛想がなくて、でも、優しくて、強くて、まっすぐで、嘘をつけなくて、世渡りも上手とはいえなくて、でも、信念があって、一本気で――。何より、本当に愛情深い。僕、兄さんや氷河といると いつも、どうして この人は こんなに深く人を愛することができるんだろうって、圧倒されちゃうんだ」
「に……似てる……? 一輝と氷河が?」
「似てるでしょう。兄さんと氷河って。兄さんと氷河は どうして こんなに似てるんだろうって思うたび、僕、すごく嬉しくなっちゃうんだ。嬉しくて、つい笑い出しちゃう」
「……」

瞬に他意はないだろう。
悪意は もちろん、兄と氷河を貶めようとする気持ちも、二人を からかう意図も、瞬は抱いていないに決まっている。
瞬は、兄と氷河が似ていると 心から信じ、その事実(瞬にとっての事実)を心から喜び、心から嬉しく思っているのだ。
が、瞬にとって喜ばしく嬉しい事実が、氷河や一輝にとっても そうだとは限らない。

「ば……馬鹿を言うな! 俺が一輝に似ているだとっ」
「瞬! おまえは 気が触れたのかっ。俺と氷河が似ている !? どこから何をどう見れば、氷河と俺が似て見えるんだっ」
瞬の見解を受け入れられなかったらしい氷河と、今は のんきに腑抜けている場合ではないと思い直したらしい一輝が、ほぼ同タイミングで、彼等の最愛の人に異議を唱える。
そんな二人を見て、瞬は いよいよ楽しそうに、くすくすと笑い出した。

「やっぱり、兄さんと氷河って そっくりだよ」
「俺と一輝のどこが――」
「似ていると言うんだっ」
瞬には そっくりに見えているらしい二人が、二人で一つのセリフを形作る。
瞬は ますます楽しそうな顔になった。
「兄さんと氷河って、自分が見えてないところも似てるかもしれない。兄さんと氷河は、情が深くて――愛した人がいなくなっても、決して忘れることなく、いつまでも その人に愛情を注ぎ続けて……。愛した人を忘れない、愛したことを忘れない。大抵の人は忘れるんだよ。自分が楽に生きていくために。なのに、兄さんと氷河は――。そんな兄さんと氷河を、どうして似てないなんて思えるの」
そんな人に――理想の人である一輝に そっくりな氷河に――『いつまでも一緒にいたい』と言われたら、瞬の心が揺れるのは当然のことである。
瞬が氷河を選んだのは、つまり、そういうことだったのだ。

「なるほどねー」
一輝と氷河は まるで得心がいかないでいるらしいが、星矢と紫龍は すっかり合点がいっていた。
「言われてみれば、確かに、一輝と氷河って、似てないのは外見だけなのかもしれないな。好みのタイプもおんなじだし、執念深さも 似たり寄ったりだし」
「なぜ この二人を 正反対な二人と思っていたのか、今となっては、そう思っていた これまでの自分が不思議でならんな。小宇宙の質が真逆だからか……。言われてみれば、確かに似ている。いや、むしろ そっくりだ」
「氷河と一輝が仲が悪いのって、瞬の愛を巡ってのライバルってだけじゃなく、同族嫌悪を感じる相手同士だからだったんだな」
「ともかく、瞬が面食いでないことだけは わかった。氷河と一輝を似ていると思うくらい、瞬は外見を気にしていないんだ」

星矢と紫龍は、謎が解けたおかげで、晴れ晴れとした表情。
そんな二人とは対照的に、氷河と一輝は、今現在 彼等が最も深い愛を注いでいる人の言葉に衝撃を受けて 呆然自失状態。
見た目は全く似ていない二人の反応は、明瞭な類似性を示していた。


ウィリアム・シェイクスピア曰く、『恋は 目でなく心で見るもの』。
瞬は、心で恋をしていたのだ。






Fin.






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