生前同様、シャカが自らの視覚を封じていれば、たとえアフロディーテの惚れ薬を吸い込んでしまっても何も起こらなかったのかもしれないが、残念ながら、その時 シャカは しっかりと両目を開けていた。
そして、その時 シャカの目の前にいたのは、某天秤座の黄金聖闘士 童虎だったのである。

「老師! お逃げください!」
と、自分だけは安全な場所に逃れて叫ぶ弟子を、童虎はどう思ったのか。
おそらく、どう思うこともしなかっただろう。
「老師、あなたは なぜ こんなにも小さくで愛らしいのだ……!」
とシャカに迫られている童虎に、弟子の無情に思いを至らせている余裕があったとは考えられない。
「うへっ」
アルデバラン同様、そんな趣味のなかった童虎が、さすがは黄金聖闘士と言いたくなる素早さで(だが、ぎりぎりのタイミングで)、シャカの手をすり抜け、逃げの態勢に入る。
『愛とは戦いである』と言ったのは、どこの誰だったか。
逃げる童虎、追うシャカ。
二人の黄金聖闘士の追いかけっこは、傍から見る分には、激闘以外の何ものでもなかった。

「老師。お気の毒に。よりにもよって、シャカに目をつけられるとは」
(安全圏で)紫龍が、大恩ある恩師に同情の眼差しを投げ、同情の言葉を呟く。
「でも、これで瞬がシャカに つきまとわれなくなるなら、それっていいことじゃん」
(安全圏で)星矢が そう言い、
「そういう考え方もあるか」
(安全圏で)紫龍は頷いた。
が、安全圏にいない童虎は 星矢たちのように のんきにしてはいられなかったのである。

「アフロディーテ! 何とかせんかっ!」
「何とかする必要はないぞ。天空覇邪魑魅魍魎!」
魑魅魍魎を召還して敵にぶつけることが、シャカの愛情表現だというのなら、やはりシャカの意識が瞬から逸れることは、瞬にとっては よいことである。
(安全圏で)星矢と紫龍は そう思った。
だが、この場合、問題なのは、瞬のストーカーが ターゲットを童虎に変えたことではなく、シャカが放った天空覇邪魑魅魍魎を 童虎がよけ、その余波で、アフロディーテが手にしていた惚れ薬入りアトマイザーを取り落としてしまったことだったろう。

「何とかしろと言われても……しまったっ!」
音速光速が当たりまえの戦場で、最も遅いスピードで進むものは、もしかしたら、人間の思考なのかもしれない。
アフロディーテが「『しまった』と言え」と脳に命令し、その命令を受けたアフロディーテの喉や舌や唇が その命令の実行に取りかかった時には既に、アフロディーテが手にしていた惚れ薬入りアトマイザーは、アテナ神殿ファサードの白大理石の上で 粉々に砕け散ってしまっていた。

最初から嫌な予感でいっぱいだった星矢と紫龍は、もちろん 更に遠くに跳びすさり、いち早く 惚れ薬の影響が及ばぬ場所にまで逃げきった。
瞬は既に薬を嗅がされていたし、氷河は瞬を見ていたので、惚れ薬の香りを嗅いでも、その恋心は変わりようがない。
そういうわけで、アフロディーテの惚れ薬の犠牲になったのは、(おそらく地上の平和を守るために)生き返っていた黄金聖闘士たち(のみ)だった。
否、彼等を“犠牲”と決めつけるのは大いなる誤りであるかもしれない。
恋に落ちたばかりの人間が不幸であることは滅多にないことだろうから。

「なぜ今まで俺は、貴様の魅力に気付かずにいたんだろう」
「おまえが こんなに美しい人間だったとは……!」
「こんな気持ちになったのは、私は これが 初めてだ」
黄金聖闘士たちの恋の告白が すべて済むより先に、処女神アテナの神殿の前が、恋の欲望に燃えた男たちの声と溜め息の坩堝るつぼと化す。
黄金聖闘士である彼等は、目にもとまらぬ速さで 自らの恋する人を追いかけ、同様に 目にもとまらぬ速さで 自らが恋していない相手の手から逃げ――それは まさに 天国の住人たちによって描かれる地獄絵図。
その場は、阿鼻叫喚の巷としか表しようのない ありさまになってしまったのである。


「なんか、とんでもないことになっちまったなー。まあ、好きにすればいいけどさ。どうせ、おっさんたち、みんな 死んでるんだし」
「そうだな。たとえ 力及ばず、誰かが誰かに捕まって間違いが起こっても、所詮 仮の身体だ。実害はあるまい」
「おまえたちは、このありさまを見て、なぜ そんなにクールにしていられるんだ! 冗談じゃないぞっ!」
なぜクールにしていられるのかと問われれば、このありさまが星矢たちにとっては正しく他人事で、地上の平和に関わりのない些事だから。
そして、彼等が掛け声ばかりがクールな氷河ではないから――だったろう。

それは さておき、そんなふうにクールな青銅聖闘士たちを 取り乱した声で怒鳴りつけてきたのは、つい先ほどまで、星矢たちよりクールのポーズを保っていたアフロディーテその人だった。
アルデバランを追いかけるデスマスクを見ても涼しい顔をしていたアフロディーテが 突然慌てだしたのは、それが彼にとって他人事でも些事でもなくなったから。
つまり、某牡羊座の黄金聖闘士が、魚座の黄金聖闘士を熱のこもった眼差しを見詰めていることに気付いたからのようだった。
我が身に災難が降りかかってきて初めて、アフロディーテは自分の自慢の薬が毒薬よりたちの悪いものだった事実を認識したらしい。

昨日は人の身、今日は我が身。
他の猪突猛進系の黄金聖闘士たちのように、後先考えず 愛するターゲットに襲いかかろうとはせず、確実に獲物を捕らえる策を考え巡らしているようなムウの目に射すくめられ、アフロディーテは その場から動けずにいるようだった。
あるいは、ここでムウの凝視から逃げ出せば、その時から不毛な追いかけっこが始まるだけだということが、アフロディーテには わかっているのだろう。
しかし、この沈静が いつまで続くことか。
なにしろ、アフロディーテを見詰めているムウを見詰めているのは、あろうことか聖闘士最強の呼び声も高い某双子座の黄金聖闘士サガだったのだ。
安全圏で、星矢と紫龍は固唾を呑んで 事の成り行きを見守ることになったのである。

「動いた!」
自分が苦戦した相手には誰彼かまわず“最強”の称号を贈る一輝の評価であるから、本当にサガが聖闘士最強なのかどうかは誰も知らないのであるが、とりあえず聖闘士最強ということになっているサガが ついに動き出したのは、しかし、彼が『今こそ好機』と判断したからではないようだった。
彼は やむにやまれず、そうしたのだ。
なにしろ、サガに恋した男は、『えーい、面倒』のアイオリア。
そのアイオリアを追いかけているのは、クールとは名ばかりの似非クール・カミュ、そのカミュに恋い焦がれているのは童虎、童虎はシャカに つけ狙われ――要するに、彼等の追いかけっこは既に始まっていたのである。

童虎の攻撃を かわしつつ、燃える(?)眼差しでアイオリアを追いかけている己が師の姿を見る羽目になった氷河は、不機嫌の極致。
事情を知らない瞬は、そんな氷河の隣りで、この騒動を ぽかんと眺めている。
「な……なんだか、とっても楽しそうだね」
やがて、なんとか気を取り直した瞬が呟いた その言葉は、決して揶揄でも冗談でもなかっただろう。
瞬の目の前で華々しい追いかけっこ合戦を繰り広げている黄金聖闘士たちの瞳は、誰の瞳も 己れの生を謳歌するように明るく楽しげに輝いていた。
アフロディーテの薬のことを知らされていない瞬が そう思うのは無理からぬことだったのだ。






【next】