まさに千客万来。 だが、今日の訪問者は、おそらく もうないだろう。 そう考えて一息つきかけた童虎は、この天秤宮に もう一人――最後の青銅聖闘士がいることに気付いたのである。 師の仕事の邪魔をせぬよう、彼は これまでずっと その気配を消していたものらしい。 「いつからそこにいたのじゃ」 「氷河の馬鹿げた相談事の時から、ずっとおりました。天秤座の黄金聖闘士のお勤めも大変ですね。皆が、老師のご意見を伺いにくる」 本心から虚心に師を ねぎらっているのか、仲間たちの相談の内容に呆れているのか。 否、もしかしたら、彼が本当に呆れているのは 天秤座の黄金聖闘士の対応の内容だったのかもしれない。 時に 傍迷惑なほど頑固で融通が利かず、糞がつくほど真面目な堅物なのだが、妙に懐の深いところもないではない弟子の(今は)真面目な顔を見て、童虎は肩をすくめた。 僧帽筋と胸鎖乳突筋 及び天秤座の黄金聖衣のせいで、自分の その仕草が 人に ずんぐりした印象を与えることは承知しているのだが、今更 弟子の前で 外見のことを気にしても意味がない。 「この苦労、わしは、いずれ おぬしに引き継がせるつもりでおる」 「これほど困難な作業、とても俺などには務まりません」 「わしに務まっているのじゃから、大丈夫じゃ」 これは 本心から そう思う。 アテナより天秤座の黄金聖衣を授かって二百数十年。本音を言えば、童虎は 今でも 短慮で大雑把な自分に この勤めが勤まっていることを不思議に思っていた。 紫龍は そんなふうには考えていないらしく――そして、天秤座の黄金聖衣の行方など語りたくないらしく――彼は 短い嘆息で 話題を変えてきた。 「氷河と一輝の いさかいは――あれは永遠に治まることはないでしょう。瞬はもう幼い頃の泣き虫の瞬ではないんですから、その意思を尊重すべきだと 俺は思うんですが、一輝は いくつになっても瞬を放っておけないらしい。肉親というものは そういうものなのかと、呆れながら 羨ましさも感じます」 紫龍には、肉親どころか、肉親の記憶すらない。 肉親がいないおかげで 一輝のような面倒事(?)に煩わされることはないが、それは幸いなことなのか。あるいは寂しいことなのか。 肉親というものを持ったことがないので、その判断すら、紫龍にはできなかった。 そんな弟子の顔を、童虎が無言で見詰める。 「兄弟は他人の始まり。遠くの親類より 近くの友じゃ。おぬしは、友に恵まれておる。おぬしの仲間たちは、血のつながりのない他人である おまえのために 命をかけることもしてくれるじゃろう」 「はい」 「肉親でも、なかなか そこまではできぬものじゃ。肉親にもできないことを、おぬしの仲間たちは 当りまえのように おぬしにしてくれる。有難いことだとは思わぬか? 血のつながりに、どれほどの価値があろうか」 「はい。老師」 真面目な顔で首肯してから、 「一輝には、血は水より濃いとおっしゃっていたような気がしますが」 と 澄ました様子で突っ込みをいれてくる弟子を、やはり天秤座の聖闘士向きの男だと、童虎は思ったのである。 「比重や粘度ならともかく、水と血液で 濃度を比較することはできまい」 「生みの親より育ての親と言いますしね」 「ふぉっ、ふぉっ、ふぉっ」 少年だった紫龍が 初めて五老峰にやってきた時、童虎は 彼を 糞真面目以外に取り得もない少年だと思っていた。 聖闘士になるための修行をつけていくうちに、その“糞真面目”こそが得難い美質だと気付き、だが その美質も いずれは失われてしまうだろうと残念に思った。 その紫龍を、糞真面目な美質はそのままに、したたかな男に成長させていったのは、戦いの経験ではない。 より正確に言うなら、ただの“戦い”の経験ではない。 紫龍を変え成長させたのは、“仲間たちとの戦い”の経験。 この紫龍なら、今すぐにでも 天秤座の黄金聖闘士の務めを果たすことができるに違いないと、童虎は思っていた。 なにしろ 彼は一人ではない――彼には、仲間がいるのだ。 その仲間たちの誰もが、多分に厄介な者たちではあったが。 「参考までに、伺いたいのですが」 厄介な仲間たちを抱えた 未来の天秤座の黄金聖闘士が、その師に尋ねてくる。 「なんじゃ」 童虎が顎をしゃくって “お伺い”の許可を与えると、紫龍は、ごく穏やかに、だが鋭く、己れの師の説伏の矛盾点を突いてきた。 「氷河は、瞬の徳のせいで、瞬の外見を忘れることはないのですか」 「氷河は、煩悩に まみれておる。あやつは 虚心に瞬を見ておらん。世の中、そういう輩の方が多いのが実情だ」 「俺は、瞬が可愛いことを忘れているわけではありません」 「氷河には言わずにおけ」 「はい」 以前の融通の利かない糞真面目なだけの紫龍であれば、ここで『はい』という答えは返ってこなかった。 今の紫龍なら これまでとは違う対応をしてくれるかもしれないと、つい期待してしまったのは、童虎の甘さだったかもしれない。 だが、童虎は期待してしまったのだ。 「ところで、紫龍。わしも おぬしに尋ねたいことがあるのじゃが」 「何でしょう」 「他でもない。酢豚のパイナップルの件じゃ」 「酢豚のパイナップルは正義です」 童虎が用件を口にする前に、紫龍から 以前と変わらぬ答えが返ってくる。 期待を裏切る弟子の対応に、童虎は むっとなった。 「聖闘士の善悪を判断する わしが、酢豚のパイナップルは悪だと言っておるのじゃ!」 「聖闘士の善悪を判断する天秤座の聖闘士とて、判断を誤ることはあるでしょう。酢豚のパイナップルは正義です」 紫龍の考えは どうあっても変わらないらしい。 変わらないどころか。 「昔に比べれば、柔軟になってきたと思っておったのに、おぬしは やはり 根本が変わっておらんの」 弟子の頑固さに呆れた天秤座の黄金聖闘士の嫌味に、 「老師こそ、その好き嫌いをお直しください」 紫龍は、なんと教育的指導で応じてきた。 師に反抗する弟子なら 『可愛い』と思うこともできるが、上から目線で師の生活態度を改めさせようとする弟子は 全く可愛くない。 天秤座の黄金聖闘士は、頑固な弟子の前で 口を への字に ひん曲げた。 |