誰もが幸福になる 忘却の日は まもなく訪れる。
氷河は、当然、その日、瞬もエレウテールの丘に向かうものと思っていた。
氷河より はるかに繊細で傷付きやすい心を持っている瞬。
にもかかわらず、村の平和と村人たちの命を守るために戦うことを余儀なくされ、しかも 瞬は――瞬にとっては不幸なことに――優れて強かったのだ。肉体も、その身体能力も。
ある人々の命を守るために、他の人々の命を奪わなければならない現実に、瞬の心は どれほど傷付いてきたか。
それは、瞬の優しい心を知る氷河には 察するに余りあるものだった。

「もうすぐだ。もうすぐ 記憶の女神が目覚める。楽しみだな。やっと楽になれるぞ。人を傷付けることを誰よりも厭うているのに、これまで おまえは誰より苛酷な戦いを強いられ続けてきた。村の平和と村人の命を守るためでなかったら、おまえは戦いなど決してしなかっただろう。その つらい記憶を忘れられる時が、やっとくるんだ」
その時の到来を、氷河は、瞬のために、瞬よりも喜んでいた。
自分の命を奪おうとして剣を振りかざし襲いかかってきた者を退けることにさえ傷付き、罪の意識に苛まれるような瞬。
そんな瞬に命を救われた村人たちが、その勝利に歓声を上げる中、瞬の瞳は悲しみに沈んでいるのが常だった。
村の者たちを守るための戦いで得た勝利が 華々しいものであればあるほど、瞬の心は沈んでいくのだ。
倒した敵の上に 一片の人間らしさを見い出すことでもあれば、それだけで瞬は身動きができなくなる。
大きな勝利を収めた日の翌朝、どう見ても 昨夜は一睡もしていないとわかる瞬の青ざめた頬に、氷河は これまで幾度も出会ってきた。

つらかった日々を、瞬は これまでいつも沈黙で耐えていたが、であれば なおさら、自分の何倍も強い気持ちで、瞬は つらい記憶が消えることを望んでいるだろうと、氷河は思っていた。
忘れることを、村の安寧と平和という美辞のもとに 自分が命を奪った者たちへの罪と考えているのか、瞬は その喜びを表に出すことは全くなかったが。
その日が近付いていることを喜ぶ氷河に同調して喜ぶことも、瞬は ほとんど しなかったが。

それでも 氷河は、瞬は その日、幼い頃から常に一緒だった幼馴染みと連れだって エレウテールの丘に向かうものと信じて疑っていなかったのである。
忘れなければ苦しくて生きていけないような つらい記憶が、瞬には多すぎるのだ。
瞬が幸福になるためには、どうしても“忘却”という契機が必要だから――そのはずだったから。


百年に一度 エレウテールの丘で祈りを捧げる際、忘却を望む者たちは 麻や綿の糸を縒って作った細く短い組み紐を記憶の女神に捧げるのが習わしになっていた。
その組み紐に、人は 過去の記憶と思い出を縒り込んで、記憶の女神に捧げるのである。
糸を縒ったり編んだりしたことなどない氷河が、『俺の分も作ってくれ』と頼むと、瞬は素晴らしく美しい組み紐を作ってきてくれた。
細く繊細で光沢のある、まるで噂に聞く東方の絹糸を縒って作ったような美しい組み紐を。

本来は、その記憶を女神に捧げる者が、これまでの自らの生に思いを馳せ 心を込めて縒る細い糸。
他人に それを頼んで作ってもらうなど言語道断のことなのだが、氷河は、自分と瞬は一心同体、同じ記憶と同じ心を持つ者同士と信じていたので、その仕事を瞬に頼むことに躊躇も罪悪感も覚えることはなかった。
組み紐を捧げられる女神とて、糸が見苦しく絡まっただけの組み紐(のようなもの)を捧げられるより、美しい模様が描かれた芸術品を捧げられた方が嬉しいに決まっている(と、氷河は決めつけていた)。
そして、その時、氷河は初めて、瞬が自らの記憶を消し去るつもりがないのだということを知ったのである。
つややかに細い糸で縒られた組み紐を、瞬が一つしか その手に載せていないのを見て。

「おまえの分は?」
「作らなかったの」
反射的に『なぜ』と問いかけて、問う前に その答えを知る。
もちろん、氷河にわかったのは、瞬が女神に捧げる組み紐を一つしか作らなかったことの意味だけである。
記憶というものに 誰よりも苦しめられているはずの瞬に、なぜ そんなことができるのか――なぜ忘れずにいることを選んでしまえるのか、その訳は 氷河にはわからなかった。

与えられた命を まだ十数年しか生きていない自分たちにも、過去の記憶を背負っていることは つらく苦しい。
誰の人生にも 悲しい出来事や つらい出来事は起こるものだろうが、自分たちの人生には あまりにも 悲しい思い出や後悔が多すぎる。
氷河は、そう感じていた。
幼い我が子のために その命を諦めた母、恩師の命をうばったこと、村と村人たちの命を守るために 多くの“敵”の命を奪ったこと。
ただの一つも、望んで起きた出来事はない。
どの出来事も 忘れたいことである。
そして、すべてを忘れることができれば、人は――もちろん瞬も――自分の人生を生き直すことができるのだ。

すべて忘れることができれば、傷付き 常に血を流している瑕疵だらけの人生は癒され、人は新しい人生を生き始めることができる。
そして、それができるのは今だけ。
今を逃せば、これまで通り、傷だらけの人生の傷を癒すこともできないまま 更に新しい傷を負う日々が、その命の終わる時まで続くのだ。
それが二人の“人生”として決定する。
まさに百年に一度の この好機を、瞬は ぼんやりと遠くに眺めて やり過ごすというのか。
氷河には、それは 考えられないことだった。

「おまえは忘れたいとは思わないのか。人を傷付けることが何より嫌いなおまえが、戦いを重ね、人を傷付けることで おまえ自身も傷付き――おまえは、俺より はるかに戦いに傷付いてきたはず。戦いに傷付けられてきたはず。俺の何倍も つらい思いをしてきたはずだ。つらくなかった時などなかったと言っていいほどに……!」
「でも、そのつらい記憶が、今の僕を作ったの」
「瞬……」
なぜ今になって――明日には エレウテールの丘に向かわなければならない今日になって――瞬は そんなことを言い出したのかと、氷河は苛立った。
苛立って――今だから 瞬はそんなことを言い出したのだということに思い至る。
瞬は、最初からエレウテールの丘に行くつもりがなかったのだ。
あえて今日の日まで何も言わずにいたのは、氷河の喜びに水を差すようなことをしたくなかったから。
その決意を鈍らせたくなかったから。
その決意の実行の邪魔をしたくないから――だったのだ、おそらく。

「今の おまえか……。俺は、今の自分が好きじゃないんだろうな。だから、忘れたい」
瞬は違うのだろうか。
幼いから、年老いているから、病を得ているから、剣の扱い方を知らないから、恐いから、人を殺したくないから。
そんな理由を並べ立てて、自ら敵に立ち向かうことをしない村人たちを守って戦い 血にまみれる自分を、瞬は好きなのか。
たまたま 他者より強く、戦いの術に長けていたというだけのことで そんな務めを強いられ、戦う術を持たない弱者たちの言いなりになっているような今の自分を?
そんなはずはなかった。

「僕は、もっとずっと自分のことが好きじゃないよ。これまで生きてきた時間は――戦い続けてきたことも、人を傷付け続けてきたことも――何もかも後悔だらけだし、悲しいことばかり、つらいことばかりだ。でも――」
「でも?」
「僕だけは憶えておかなくちゃって思うんだ」
「何をだ」
「氷河と僕が耐えてきたこと、つらかったことや悲しかったこと――」

何を、瞬は言っているのか。
『後悔だらけで、悲しいことばかり、つらいことばかり』
それは氷河の人生も同じだった。
そんなものを憶えていて、それが いったい何になるというのか。
「二人して忘れればいいじゃないか」
氷河は そのつもりだった。
つらい記憶、悲しい思い出を 二人で忘れ、二人が まだ幼く幸福だった頃に戻り、二人で人生を生き直す。
そして、瞬には 二度と剣を持たせない。
それが氷河の計画だったのだ。
だというのに。
だというのに、瞬の決意は固いようだった。
瞬は首を横に振り、氷河を見ているのが つらいと言うかのように、その顔を俯かせた。

「死ななければ忘れることのできない記憶を、生きたままで忘れることができるんだぞ。こんな幸いなことはない」
「うん……そうだね……」
瞬が力なく頷く。
「瞬……」
こうなればもう、瞬の心を変えることはできない。
そうであることを、氷河は知っていた。
『うん』『そうだね』『氷河の言う通りだよ』
瞬は、決して人の意見に逆らわず、頷き、受け入れて、だが、どうあっても 自分の意思を貫き通すのだ。






【next】