そうだ。
俺は 東京の夏に耐えられなくて、瞬と一緒にシベリアに避暑に行こうとしたんだ。
そうしたら、瞬が、フィンランドにある カバに似た某妖精のテーマパークに寄りたいと言い出し、東京の異常な蒸し暑さから逃れられさえすれば それでよかった俺は、二つ返事でOKした。
カバのテーマパークも悪くはなかったが、その後、何かの弾みで、フィンランドとロシアの国境を見に行こうという話になってカレリア地方に向かい、カレリア地峡を歩いている時に、カリンカの花を見付け――。
その花が すべての元凶だった。

カリンカの花――要するにガマズミの花だ。
瞬は、カリンカの歌は知っていて、カリンカの赤い実も写真で見たことがあって、だが、花は見たことがなかったんだ。
カリンカは、白い小さな花が集まって咲く散房花序。
瞬のように可憐で可愛い花だ。
その花が、崖の上に、谷に せり出すようにして咲いていたんだ。
花の盛りの時季は過ぎていて、伸びた枝の先の方に少しだけ。
それを取って 瞬に見せてやろうとして、瞬が止めるのも聞かずに 身を乗り出し、腕をのばし、俺は見事に崖から落ちた。
落ちた?
妙だな。
落下した記憶はあるが、崖下に着地した記憶がないぞ。
無論、墜落した記憶もない。

「そうだ。冬じゃなかった。夏だ。カリンカの花が咲いていた」
だというのに、今 俺の周囲は白一色。
これも、おかしい。
記憶が戻っても、理屈に合わないことばかり。
俺が軽く眉根を寄せると、そんな俺を見て、星矢は俺の10倍も力を込めて眉根を寄せ、顔を歪めた。
どうやら 星矢は、俺の反応の薄さが気に入らなかったらしい。
無駄に力んで、星矢は 俺を頭ごなしに 怒鳴りつけてきた。
「もうちょっと早く気付けよ! 今は――ここは、本来 俺たちがいた時間じゃないんだよ! 聞いて、驚け! 今は 俺たちが生きていた時代より400年前だ! 400年前のフィンランドとロシアの国境!」

400年前?
シェイクスピアの『冬物語』の初演だって済んでいるかどうかも怪しい時代じゃないか。
何だってまた。
「なぜ俺は そんな時代にいるんだ。特に邪神の気配も感じないが」
アテナの聖闘士が 本来 俺たちのいるべき場所 あるべき時代以外のところに飛ばされたというなら、それは その地、その時代にアテナの聖闘士が倒すべき敵がいるからだろう。
だが、ここには 自国民より自分の保身を考える怯懦な君主たちの陰謀はあるが、世界の平和を脅かし 聖域の秩序を乱すような邪神の気配はないぞ。
――と、俺は、実にアテナの聖闘士らしいことを考えたんだが、どうやら 俺が400年前のフィンランドとロシアの国境にいるのは、俺がアテナの聖闘士であることとは何の関係もないことだったらしい。
俺は、アテナの聖闘士でなくても、400年前のフィンランドとロシアの国境に飛ばされる運命にあったらしかった。

つまり 俺は、アテナの意思で ここにいるわけじゃなかったんだ。
そうじゃなかったことに、俺は 星矢の、
「おまえ、崖から落ちる前に、クロノスの悪口を言ってただろ」
という言葉のおかげで気付いた。
あいつか!
俺と 俺の愛する瞬を引き離したのは!
だが――。
「クロノスの悪口? 俺は そんなものを言った記憶はない」

別に、言い逃れや責任逃れをしたいわけじゃないぞ。
俺には 本当に、そんな記憶がなかったんだ。
俺の記憶は まだ完全に戻っていないのか?
『あれがカリンカの花? とっても可愛い花だね』
そう言って微笑った瞬の可愛らしさは しっかり憶えているんだが。
あの可愛らしい笑顔を見たあとで、この俺が 人(神)の悪口を言う気になどなるだろうか。
それ以前に、瞬と二人でいる時に、俺以外の男の名前なんぞを口にしたいとは思わんぞ、俺は。
そんな記憶はないと正直に告げた俺に、星矢は舌打ちを返してきた。

「都合の悪いことは、都合良く忘れやがって! おまえは憶えてないかもしれないけど、実際 おまえは言ったんだよ! クロノスの悪口を、思いっきり!」
俺が実際にクロノスの悪口を言ったのだとしても、憶えていないことは 弁解のしようがないし、反省することもできない。
一文字に唇を引き結んだ俺を、瞬が庇ってくれた。
「氷河のせいじゃないよ。あれは僕が悪かったの。僕が、カリンカの実は甘いのか――なんてことを 氷河に訊いたりしたから……」
瞬が そう言うのを聞いて、俺は思い出した。
どうも 俺の記憶は、すべてが瞬を中心に、瞬に関連づけて、整理記録されているらしい。
そうだ。
瞬に訊かれたんだ。
カリンカの実のことを、
『カリンカの実って甘いの?』
と、超可愛らしく。

かろうじて枝の端に花が残っているカリンカ。
実が生りかけている枝もあったが、それは まだ緑色。
とても口にできるようなものじゃなかった。
『実が甘くなるのは 秋に入ってからだな。クロノスが今すぐ季節を秋にしてくれれば、花と実を両方楽しめるんだが、神というのは実に気が利かない生き物だ。花の盛りは過ぎ、実が実るには早すぎ。せっかく俺たちが こんなところまで遠出してきたのに』
『そんな無理を言っちゃだめだよ。時間や季節は 自然に過ぎて流れていくのが いちばん。それが正しく美しい あり方だよ』
『しかしだな。アテナを筆頭に、神はいつも無理無茶をして、俺たちに迷惑をかけてばかりいる。クロノスなんて、そのアテナをさえ からかってのける、神の中でも最も根性がひん曲がった、ろくでなしの神だ。たまには 俺たちのデートの演出に協力するくらいのことをしてくれてもいいんじゃないか。まあ、クロノスの根性が ひん曲がっているのは、もてない男の僻みから来るものなんだろうがな。クロノスは、チビデブハゲの三重苦男なのに違いない』

「……ああ、そういえば、言ったな、そんなことを、色々と少し――」
400年未来の自分の発言を思い出し、俺は口許を引きつらせた。
とはいえ 俺は、自分が確かにクロノスの悪口を言ったという事実を自覚し、後悔したわけでも 反省したわけでもない。
つい、『あれくらいのことで こんな真似をしでかすとは、肝の小さい男だな!』と言ってしまいそうになった自分を、俺はクールに自制自重したんだ。
そんなセリフを吐いて、今度は4000年も昔に飛ばされたりしたら たまったもんじゃない。
俺は、さりげなく話題を変えた。

「それにしても、どうして あの城に俺を迎えに来たのが おまえら二人だったんだ。瞬が迎えに来てくれれば、俺は 一発ですべてを思い出したのに」
「それで浮かれた おまえに 余計なことを口走られたら、それでなくても面倒な事態が 更に面倒なことになるからな!」
星矢が 忌々しげな目で、俺を睨みつける。
なるほど。
それは賢明な判断かもしれない。

「おまえを どこに飛ばしたのかをクロノスから聞き出すために、沙織さんが あれこれ骨を折ってくれたんだ。戻ったら、しっかり礼を言っておけ。あの指輪も、口止めや謝礼に必要になるかもしれないと言って、沙織さんが俺たちに持たせてくれたものだったんだ」
さすがは、我等がアテナ。
無茶無理我儘な神の代表格ではあるが、それだけじゃない。
もちろん、アテナには しっかりと礼を言うぞ。
アテナがいなかったら、俺は こうして瞬と再会することができなかったかもしれないんだから。

「ったく、何が王子様だよ。アテナの聖闘士が、崖の端に咲いてた花を取ろうとして 崖から足を踏み外して記憶を失うなんて、半世紀も前の漫画みたいな真似をしてくれやがって……! 同じアテナの聖闘士として恥ずかしいぞ、俺は!」
俺と同じアテナの聖闘士でいるのが恥ずかしいなら、いつでも やめてくれて結構だ。
そう言おうとした俺を遮ったのは瞬――俺の瞬だった。
「カリンカの実が食べられるようになったら、また来ようね」
多分、俺が何を言おうとしたのかを素早く察知して、瞬は、俺が売り言葉に買い言葉状態になるのを 絶妙のタイミングで止めてくれたんだ。
「一足飛びに 秋にならなくても――ならない方がいいでしょう? 待ってる時間が楽しいんだよ。氷河と一緒に」
『もう二度と、神の悪口なんか言って アテナや仲間たちに迷惑をかけるんじゃない!』と、言っていることは星矢と同じなのに、瞬に言われると なぜ素直に従おうという気持ちになるんだろう。

身勝手な神のせいで、自分が何者であるのかを忘れ、やっと取り戻した自分という人間の姿。
それは、“優しく可愛らしい恋人の言葉には 素直に従うことのできる、幸せな男”という姿だった。
腹の立つことも呆れることも色々あったが、まあ、なかなか いい“自分探し”イベントだったな。
とはいえ、そのイベントに もう一度 挑みたいとは、俺は 死んでも思わないが。
“自分”は、過去に探しに行くものじゃなく、未来に向かって 瞬と一緒に作っていくものだと思うから。






Fin.






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