「おまえは誰と その契約を交わしたんだ」 何よりもまず、それを知ることが肝心である。 敵が何者であるのかを知らなければ、その企みを妨げることも 戦うこともできない。 それどころか、驚くことも慌てることもできない。 決して 驚き慌てたいわけではなかったのだが、ともかく 氷河は その“肝心のこと”を瞬に尋ねた。 なぜか、驚くことも慌てることもできずにいる氷河の前で、瞬が首を横に振る。 「わからないの。でも、ハーデスより力のある神なんじゃないかと思う。あの声の主は、氷河たちの死を退ける力を持っていたんだから。それも何度も」 「……」 これまで幾度も“死”の手に捕まりかけながら、その手を逃れてきたアテナの聖闘士たちの しぶとさを語る星矢の話を、瞬は どんな気持ちで聞いていたのか。 瞬が死ぬかもしれないという 不確かな未来の出来事より、既に瞬が その胸を痛めていたのだろう過去の出来事の方が、氷河には気にかかった。 氷河は、瞬が語る数日後の瞬の死というものを、すぐ そこに迫っている現実味のある懸念事項として認めることができずにいたのかもしれない。 現に瞬は今、生気に輝き、確かに生きている。 この瞬が数日後には死んでいるかもしれないと思うことは、氷河には困難なことだったのだ。 瞬の瞳が不安の色を帯びているのも また、紛う方なき事実ではあったのだが。 「氷河がカミュのフリージングコフィンから甦ったのは、僕の小宇宙がカミュの凍気に勝ったからじゃないの。あの声の主が、僕との約束を果たすために、氷河から死を退けてくれたからなんだよ。だから、氷河が僕に恩を感じたり 感謝したりする必要はないんだ」 もしかしたら 瞬は、十二宮の戦い以降 ずっと、そのことに 引け目や罪悪感のようなものを抱いていたのだろうか。 ためらいがちに、どこか気後れしたような目をして そんなことを言う瞬を、氷河は 少しばかり もどかしく思った。 「あの時 俺が甦ることができたのは、おまえの小宇宙のおかげでなかったとしても、おまえのおかげだ」 瞬が どう思おうと、その事実に変わりはない。 瞬に『死なないで』と言われたから、瞬に『生きて』と願われたから、氷河は瞬の許に帰ってきたのだ。 そして、氷河が今 瞬に対して抱いている思いは“恩”でも“感謝”でもなく、“この人のために生きたい”という切実な願いだった。 そんな氷河の気持ちを知っているのか いないのか、瞬が氷河に すがるような目を向けてくる。 「僕――僕はいずれ、あの契約をした何者かに 魂か身体を奪われるんだと思うの。ハーデスが僕の身体を使って滅ぼそうとしたように、あの声の主も 僕の身体を何かに利用しようとしている。でも、本当に卑怯だと思うけど、僕は僕の魂も身体も誰にも渡したくないんだ。僕は、ずっと アテナや氷河たちと共にありたい。たとえ死んでも。ハーデスの時のように、この身体を利用されて、地上の平和や みんなの命を害するものにはなりたくない」 それは、戦いの嫌いな瞬が、それでも戦いを続けてきた目的とは、正しく真逆の結末である。 そうなりたくないと願う瞬の心は、氷河にも痛いほど わかった。 そんなことになったら――瞬は、これまでの瞬の生を すべて否定されてしまう――無意味なものだったことにされてしまうのだ。 その事態を避けたい瞬の気持ちはわかる。 その気持ちは わかるのだが、だからといって、 「だから――その時が来たら、氷河、僕をフリージングコフィンで 身体も命も魂も 永遠に閉じ込めて」 という瞬の願いを叶えることは、氷河には到底 できることではなかった。 「馬鹿な。そんなことができるか」 氷河の答えは、最初から わかっていたのだろう。 わかっていたからこそ、瞬は氷河の言下の拒否に怯むことなく 食い下がってきたのだ。 「お願い。僕は、氷河たちの敵になりたくない。僕自身の敵にもなりたくない。僕を あの声の主の手が届かないところに運ぶことができるのは氷河だけなんだ……!」 そんなことができるのが白鳥座の聖闘士しかいないというのなら、氷河は たった今、白鳥座の聖闘士でいることを やめてしまいたかった。 氷河は 重ねて瞬の願いを拒もうとし、しかし その直前で思いとどまったのである。 もちろん、瞬を 永遠に融けない氷の棺に閉じ込めることなど できるわけがない。 できたとしても、する気はない。 しかし。 「その時、絶対に、おまえの身体も命も魂も誰にも渡さないと約束したら、おまえ、俺と付き合ってくれるか」 もちろん、瞬を 永遠に融けない氷の棺に閉じ込めることなど できるわけがない。 できたとしても、する気はない。 しかし、氷河には 瞬を欲しいという気持ちはあったのだ。 「は?」 何を言われたのか わからない。 そんな顔をして、瞬が その瞳を大きく見開く。 白鳥座の聖闘士が何を言ったのかを瞬にわかってもらうために、 「俺はおまえが好きなんだ」 氷河は言葉を重ねた。 瞬が 仲間の顔を視界に映し 幾度も瞬きを繰り返すのは、白鳥座の聖闘士が告げた言葉の意味を、瞬が“わかって”くれたからなのか。 それとも、依然として わかっていないからなのか。 瞬が戸惑ったように口を開いたのは、どうやら 白鳥座の聖闘士が告げた言葉の意味を、瞬が“わかりかけて”いるから――のようだった。 「え……と、氷河、僕は こう見えても一応――」 瞬が何を言おうとしているのかを察知し、氷河が素早く その声を遮る。 「約束の日まで、あと数日しかないんだろう。残された貴重な時間を、詰まらんことを あれこれ言い合って費やすのは惜しい。俺が今 知りたいことは、ただ一つだ。おまえは、俺が嫌いか」 「そ……そんなことあるはずがないでしょう」 「ああ。もちろん、そんなことがあるはずがない」 『残された時間は少ない』 それは、事を迅速に運ぼうとする者にとって、何と便利な理由だろう。 “瞬は氷河を嫌いではない”――その事実を手に入れるや、氷河は瞬の身体を抱きしめた。 抱きしめて、唇と唇を重ねる。 おそらく、“嫌いではないから”ではなく、驚きのあまり、瞬は抵抗らしい抵抗もしなかった。 最初の驚きが薄れていっても――薄れるだけの時間が過ぎても――瞬は やはり 白鳥座の聖闘士に抵抗する素振りを見せず、怒りも なじりもしなかった。 瞬が そんなふうでいる理由は、実は 氷河にはわかっていなかった。 それは まさに、“残されている時間が限られているから”だったかもしれない。 案外 瞬は、自分が生きているうちに――自分の身体や心が自分のものであるうちに――自分の知らないことを知っておきたいと、それを願ったのだったかもしれない。 つまり、自分が生きているうちに 恋というものを経験しておきたい――と。 瞬は 実際、白鳥座の聖闘士を嫌いではなかったのだろう。 命をかけた戦いを共に戦ってきた、仲間以上の仲間、肉親以上の仲間、恋人以上の仲間ではあったのだ。瞬にとって、氷河は。 残された時間は少ない。 それを恐がり、ためらったりしている時間も惜しい。 (もしかしたら)(だから)その夜、瞬は、氷河に求められるまま、氷河の前に身体を開いてくれた。 時間が惜しくて ほとんど眠らなかったが、貴重な時間を 二人で寄り添い合って眠ることに費やすのも 悪くはなかった。 二人で、ひまわり畑に出掛けて行き 巨大な迷路で遊び、縁日で金魚すくいをし、浜辺で貝殻を拾い――瞬に 余計なことを考えさせないために、氷河は瞬を あちこちに連れ回した。 他愛のない――だが、聖闘士だったせいで経験できずにいた他愛のない――時の過ごし方というものを、氷河は瞬に経験させてやったのである。 最初のうちは、『今は こんなことをしている時ではない』と言いたげだった瞬も、それを氷河の思い遣りと解したのか――数日後には 生を楽しむことができなくなる仲間への はなむけと解したのか――やがて『余計なことは考えずに、残された貴重な時間を楽しもう』と思うようになってくれたようだった。 |