「瞬! いったい何だ、この小宇宙は! 敵襲かっ」
「なんで、こんな時に敵が来るんだよ! うえぇぇぇ〜、吐きそー」
時ならぬ瞬の小宇宙に驚いたらしい紫龍と星矢が、城戸邸の裏庭に駆けつけてくる。
が、龍座の聖闘士と天馬座の聖闘士は、そこに敵の姿を見い出すことはなかった。
そこにあったのは、アンドロメダ座の聖闘士と白鳥座の聖闘士の姿だけ。
他には、1本のローズマリーの木が 豊かな緑を たたえた枝を切なげに揺らしているばかりだったのだ。

「私は、あなたの命も身体も魂もいらない。あなたから それを奪おうとは思わない。私には何の力もない。あなたとの約束を果たすために何かをしたわけでもない。私は無力な1本の木にすぎないの……」
10年の時を経て聞く、その声。
それは空気の振動によって生じる“音”ではなく、アテナの聖闘士たちの心に直接 響いてくる、正しく“声”だった。
「ローズマリーの木……?」
瞬と瞬の仲間たちの前にあるローズマリーの木は、瞬に見詰められて、己れの無力を悲しむように頷いた。――アテナの聖闘士たちの目には そう映った。

「10年前、私と私の仲間たちが生きていた場所は、突然 人間たちの手によって壊されてしまった。地面が掘り起こされ、根は断ち切られ、私は死にかけていた。仲間たちは皆、私より先に その命を終え、私はあの場所にいた最後のひと株。それをあなたは救ってくれた」
「あの声……10年前の あの声は、じゃあ――」
聖母子を救ったマリアの薔薇。
あの頃、幼い瞬の膝にも届かなかった小さな草は、今は生気に満ちた緑で その身を包んでいる。

「10年前、この家を離れる あなたの心は不安でいっぱいだった。お兄さんと お友だちのことを案じて、瞳に涙を浮かべていた。私は、あなたのおかげで死なずに済んだ。だから、その優しさに報いたいと思ったの。でも、私は 自分では動くこともできない、非力で みすぼらしい草でしかなくて――」
「あ……」
冥府の王ハーデスをも凌駕する強大な力を持つ何者か。
そう思っていた声の主の意想外の正体に、瞬は呆然としていた。

「私は、あなたに、せめて 希望をあげたいと思ったの。あなたと あなたの仲間たちは決して死なないという希望、その約束を。私は あなたに 諦めずに戦ってほしかった。生きていてほしかった。だから 私は、あなたと あなたの仲間たちは決して死なない、その命は必ず守られるっていう嘘をついたのよ。私には何の力もない。あなたと あなたの仲間たちが生き延びることができたのは、あなたと あなたの仲間たちの力。私の力なんかじゃないわ。私は あなたのために何もしていない。だから、あなたは私に どんな代償を差し出す必要もないの」
『私には何の力もない』
ローズマリーの木は そう言うが、本当に そうだろうか。
そんなことはないと、瞬は思ったのである。

「あなたが何の力も持っていないなんて、そんなことはないよ。僕は、あなたにもらった希望のおかげで、これまで生きてこれた――どんなに つらくても戦ってこれたんだ。あなたが僕にくれた希望の力に支えられて。……何も知らずに、あなたを邪悪な存在だと決めつけて、ごめんなさい。ありがとう」
本当は 力いっぱい 抱きしめて感謝の気持ちを伝えたかったのだが、そんなことをして 彼女(?)の枝葉を傷付けるわけにはいかないので、その細く しなやかな枝を 手の平に載せ、見詰める。
ローズマリーの木は、嬉しそうに、切なげに、まるで微笑むように その身を震わせた。
「私の方こそ ありがとう。私には何もできないけど、これからもずっと、私はあなた方を見守っているわ。ありがとう」
『ありがとう』と、その言葉を繰り返し、やがてローズマリーは 再び 物言わぬ木に戻っていった。
無言の存在に戻っても――さわやかな香りを周囲に馥郁と漂わせ、その思いの強さと深さを、彼女は 瞬と瞬の仲間たちに伝えてくる。



「え……と、今の声、何だ? 今 ここで何が起こってたんだ? 俺、全然 話が見えてこねーんだけど」
不思議な声の思ってもいなかった正体。
その声が聞こえなくなっても、彼女が生む香りのせいで、不思議の国の空中を ふわふわと浮遊しているようだった瞬の心を 現実世界に引き戻してくれたのは、フライドチキンと鶏の唐揚げの正体を知らずにいた 某天馬座の聖闘士だった。
そして、あの声の主が誰であったのかを どう説明すればいいのかと戸惑った瞬の代わりに その仕事をしてくれたのは、これほど不思議な出来事に出会っても まるで動じる様子を見せない白鳥座の聖闘士だった。

「愛の力、希望の持つ力は、冥府の王ハーデスの力より強く大きなものだということが わかったんだ」
『私には何の力もない』と嘆いていたローズマリーは、氷河の その言葉を どんな気持ちで聞いているのか――氷河の言葉はローズマリーの心に届いているだろうか――。
『きっと』
答えは、瞬の中から返ってきた。

「氷河。僕、そんなふうに言ってくれる氷河が大好きなの」
「ん? ああ。やっぱり そうだったのか」
表情は変えずに、瞳は輝かせて、氷河が頷いてくる。
氷河は、ローズマリーの木に似ている――と、瞬は思ったのである。
ローズマリーの木と同じように、氷河は、美しい姿を見ているだけでは その内面の優しさや強さまでは掴めない。
星矢のための お茶をいれたら、そのあとで、今 話さなければならないことを 氷河に話し、今 話さなければならないことを 氷河に話してもらおうと、ローズマリーの香りの中で 瞬は思った。






Fin.






【menu】