新聖堂は、クーポラや主祭壇、身廊、翼廊、拝廊等は既に完成し、側廊の装飾のみが未完成で残っている状態。 10人前後の職人が その内装作業にいそしんでいた。 会衆席は まだ設置されていないので、市民は聖堂内陣の内を障害なく自由に行き来できる。 会衆席が未だ設置されていないのは もちろん、内陣の左右の壁に飾られた二人のマリアを市民が鑑賞しやすいようにとの当局の配慮だった。 二人のマリアの前には それぞれに人だかりができていて、彼等の多くが二人のマリアの間で行ったり来たりを繰り返していた。 瞬は、その名は既にフィレンツェ市民の間で知らぬ者はないほど有名になっていたが、このコンペティションで表舞台に飛び出た、ほぼ無名の画家。 画家の姿を知る者は少ない。 そこにいる若すぎるほど若い少年を、このマリアを描いた画家の一人と気付く者はおらず、瞬に気を取られる者たちは、瞬が“地上のマリアを描いた画家だから”ではなく“レオナルドの描いた天使も かくやとばかりの姿をしているから”瞬の上から視線を逸らせなくなっているようだった。 「このマリアを描いた方は、どんな方なんですか。お名前は……」 このマリアを見るのは 今日が二度目である。 政庁舎の一室ではなく聖堂で見ると 一層、この場にふさわしいのは自分の描いた地上のマリアではなく、この天上のマリアの方だという瞬の確信は強まった。 天上のマリアに視線を据えたまま、瞬は感嘆の息混じりに同行者に尋ねたのである。 瞬の同行者リヴォルノ侯爵は、瞬の描いたマリアを見て後援を申し出てくれた貴族の一人だった。 フィレンツェ有数の資産家である彼は、瞬だけでなく フィレンツェの二つの光のパトロンになることを望んで、もう一人の画家にも同じ申し出をしているらしい。 とはいえ、彼は、功名心や名誉に(だけ)こだわっているわけではない。 後援する相手も 優れて有望な芸術家なら誰でもいいというわけでもない。 このコンペティションに関して言うなら、彼は好みが はっきりしていないのでもなく、『二人のマリアは“違うマリア”だから優劣をつけることに意味はない。“聖母マリア”という題材があまりに漠然としすぎ、曖昧すぎたのだ』というのが、彼の意見。 “イエスの母としてのマリア”が課題だったなら、迷いなく瞬の絵を選ぶし、“被昇天後のマリア”が課題だったなら、迷いなく もう一方のマリアを選ぶと、彼は言っていた。 「名は氷河。君より少し年上だ」 「氷河?」 イタリア語にはない名前である。 外国人なのかと問うと、パトロン志願のリヴォルノ侯爵は 首を横に振った。 「生まれも 育ちもトスカーナだ。ただ――」 「ただ?」 「奇妙な符合だ。前大公フランチェスコ1世の頃、極東の日本という国から 遣欧少年使節団がやってきたことは、今更 君に語るようなことでもないだろうが、彼は そのゆかりの者だそうだ。氷河というのは、日本語の名。君と同じだ」 「え……」 確かに奇妙な符合である。 瞬の名も日本の名。そして、瞬にも日本人の血が入っていた。 瞬が瞳を見開くと、パトロン志願の老貴族は 白い豊かな髭を揺らし、考え深げな様子で頷いた。 「私は、かの使節団が 当時の法王グレゴリオス13世に贈った日本の屏風絵を見たことがある。あちらの絵は、何と言うか――絵に描かれている空気が 欧州のものとは まるで違っていた。木と花と鳥――絵を描くのに こういうアプローチの仕方があるのかと、私は驚嘆した。君と氷河の絵の技法は完全に欧州のものだが、このフィレンツェの他の画家――いや、欧州の他のすべての画家には持ち得ない感性が、君たち二人には備わっているのだと、私は思っているよ」 「そう……でしょうか」 瞬は物心がつく前に父母を亡くしたので、自分の両親がどういった人物だったのかを全く知らなかった。 “瞬”という名が 少年使節団の随行人から提供された日本の名だということだけは知っていたが、それも、孤児になった瞬を引き取り育ててくれた教会の神父から聞かされただけ。 日本の人間にも文化にも触れたことはなく、日本の絵を見たこともない。 画才があると言って、瞬がフィレンツェの工房に入れるよう手配してくれた神父も、瞬の画才や美意識が日本に由来するものと考えている様子はなかった。 「瞬。辞退は考え直しなさい。聖堂は 地上と天上を結びつける場所。君が描いた地上のマリアと 氷河が描いた天上のマリアのどちらかではなく、双方が揃って初めて、この聖堂は完璧になるのだ。新聖堂に飾る12枚の絵を 君と氷河に6枚ずつ制作させてみてはどうかと、私は大公に進言するつもりでいるよ。100年前 ヴェッキオ宮殿の五百人広間の左右の壁画を、それぞれレオナルドとミケランジェロに描かせ競わせたように――と言えば、往時の栄光を己が手で甦らせることを切望している大公は 私の進言を容れるだろう」 「競作――ですか……」 リヴォルノ侯爵の提案を瞬が固辞しなかったのは、彼の言に説得されたからというより、彼がパトロンになりたがっている もう一人の画家に会ってみたいという気持ちが強かったからだったかもしれない。 |