リヴォルノ侯爵は、瞬の修道院行きを阻止すると宣言した その足で、氷河の許に向かったらしかった。 「俺に断わりもなく修道院に入るとは、どういう料簡だ!」 という氷河の怒声が瞬の部屋に響き渡ったのは、侯爵が瞬の部屋を出ていってから 小半時も経たない頃。 工房の奥にある この部屋に来るには、工房の作業場を突っ切らなければならない。 日が暮れるには まだ間があり、作業場では親方や その徒弟たちが 忙しく客からの注文品を制作していたはず。 特段 対立し合っているわけではないが、言ってみれば 商売敵の工房の筆頭に傍若無人に押し入られ、ここまで通してしまったというのは――誰もが氷河の剣幕に圧倒され、彼を制止できなかったということなのか。 以前の瞬なら、そんなことをして あとでギルドで問題視されるようなことになるのではないか――と案じていただろうが、今の瞬には そんなことにまで気をまわす余裕はなかった。 不意打ちのような氷河の登場に息を呑み、その激昂に気圧され、だが、その心身の緊張を維持できない。 氷河に会えたことが嬉しくて、苦しい。 瞬は その心身から力を抜いた――自然に抜けていった。 瞳に、涙が盛り上がってくる。 「絵を……描けなくなってしまったの。ヨハネの下書きに入らなきゃならないのに、気が付くと 氷河のデッサンをしていて、でも、ちっとも似ないんだ……」 自分が何を言っているのか、自分でも わからない。 自分は 自分の挫折を氷河のせいにしたいのかと疑ったが、その疑いは すぐに瞬の中から消えていった。 そんな気力も今の自分にはない。 これは ただの泣き言にすぎない。 泣き言で告解。 それで何かを得たいわけでもなく、自分は 心の中に溜まっていた澱を 心の外に吐き出してしまいたいだけなのだと、瞬は思った。 「そんなつもりはなかったのだけど……僕は うぬぼれていたの。自分に絵の才能があると思ったことはなかったけど、ないかもしれないと疑ったこともなかった。僕はただ 絵を描くことが好きで――でも、氷河の絵に出会ってから、僕は絵を描けなくなってしまったの……」 「俺の絵?」 小さな木の寝台に 肩を落として座っている瞬の前に 仁王立ちに立ち、氷河は かつてのライバルだった哀れな画家を見下ろしている。 怒っているのか、軽蔑しているのか、哀れんでいるのか――瞬は恐くて、その顔を見上げることもできなかった。 「氷河の描いたマリアを見た時、マリアへの思いの深さに、僕は負けていると感じたの」 「俺のマリアと おまえのマリアが違うのは当然だ。俺は、あのマリアを亡き母への思いで描いた。おまえのマリアは、おまえ自身の心を描いたものだ。俺のマリアは 人の手の届かぬところにいるマリアで、おまえのマリアは 傷付き悲しんでいる人間を その胸に抱きしめてくれるマリアだ。別物なんだ。違っていて当然。優劣はない」 「……」 氷河の言う通りなのだろうと、瞬は思った。 瞬が描くマリアは いつも、母のない孤児たちの心を包み温めてくれるマリアだった。 いわば、すべての人々の母。 人間の母親は、我が子の髪を頬を撫でてくれるものでなければならない。 それは 幼い頃の瞬自身が欲した温もりで――だが、今 瞬が欲しいのは それとは違う何かだった。 「以前は描くことが楽しかった。みんなが僕の絵を見て、笑顔になってくれるのが嬉しかった。思い通りに描けないことなんかなかった。ううん、思い通りに描けないこともあったけど、その絵を見て笑ってくれる人が一人でもいれば、絵を描いたことに後悔を覚えることはなかった。でも、今は描くことが つらくて、絵を描くことへの自信がなくなって――僕は才能がないの。努力はしたのだけど……」 「自信? 才能? おまえは何を言っている。おまえのマリアが どれほどの人間に力を与えたか、おまえは知らないのか」 「あれは 氷河に出会う前に描いたものだから」 氷河と氷河の絵に出合い、迷いを抱く前に描いたものだったから、あのマリアには 幾許かの力があった――のだろう。 瞬が 迷いを得て、絵を描けなくなったのは、氷河と氷河の絵に出会ってからのことなのだ。 「僕は、多分、ミカエルは氷河のイメージで描いたの。氷河が僕を見てくれないから、僕のものになる氷河を描こうとした。無意識のうちに、僕に微笑んでくれる氷河を描こうとしていたんだ。でも、描ききれなかった。必死に、あれはミカエルの絵であって、氷河の肖像画じゃないんだって、無理に自分を納得させて、絵を描き続けようとした。でも、もう……」 「それは俺も同じだ。神癒のラファエルは、おまえを描こうとして、描き切れなかった。おまえはもっと優しく美しい。俺も あのラファエルには不満が残った。おまえとラファエルは別物だと 自分を無理に納得させ、聖堂に納めた。自分の力不足には腹も立ったし 焦れもしたが、だからといって、修道院などに逃げ込もうなどとは思わんぞ、俺は」 神の剣として悪魔を討ち倒す大天使ミカエルを自分に、傷付き倒れた人の心身の渇きを癒すラファエルを氷河に描かせるのは 逆なのではないかと問うた瞬に、リヴォルノ侯爵は自信満々で『逆ではない』と答えてきた。 侯爵はもしかしたら そうなることを見越して――二人の画家が誰をモデルに天使の絵を描くことになるのかを見越して――画家たちの描く天使を指定したのだったかもしれない。 瞬に氷河を、氷河に瞬を描かせようとして。 そうして完成した作品を人々は絶賛したが、画家当人たちは それを成功作と思うことができなかったのだ。 こんな結末になることを、老侯爵は想像していたのだろうか。 それは、だが、今更 彼に確かめてみても詮無いことである。 現に結末は こうなってしまったのだ。 「氷河は強いし、才能もある。でも、僕はもう無理……描けない。氷河は……氷河は綺麗すぎて――氷河の目を思い出すと、胸が苦しくなって、氷河に無視されると、自分がちっぽけな存在に思えてきて――こんなことは これまで一度もなかった。これまでに幾枚か描いた肖像画でも、僕はモデルの姿だけでなく、内面まで描けていたのに、氷河はわからない。氷河の心は掴み切れない。僕は、心が掴めないと、姿も描けないの」 掴めるものなら掴みたい。 だが 氷河は、彼と彼の絵に焦がれる未熟な画家が その側に近付くことさえ許してくれない。 瞬には もはや氷河の姿も氷河の絵も見ることのできない場所に逃げるしかなかったのだ。 項垂れ俯いた瞬に、それでなくても“掴めない”氷河が、一層 訳のわからない言葉を重ねてくる。 「俺もだ。おまえを描こうとして描き切れない。だから 俺は、おまえを絵に描くのは諦めて、本物を手に入れることにしたんだ。そう決意したばかりなのに、修道院になど入られてたまるか」 「本物を手に入れる?」 それは どういう意味なのか。 瞬には やはり氷河の口にする言葉の意味が わからなかった。 言葉すら わからないのに、心などわかるわけがない。 「おまえを 俺のものにする。神などに渡してなるか。この工房の奴等には、この工房をつぶしたくなかったら 邪魔をするなと釘を刺してきた」 氷河が どういう意味で、なぜ、何を言っているのか わからない――瞬には 本当に、“氷河”が理解できなかった。 「僕を手に入れるって、なぜ? 何のために? 氷河はずっと僕を無視していた。氷河にとって 僕は何の意味もない存在で……」 「無視していたんじゃない。おまえとおまえの絵の前に立つと、胸がいっぱいになり、言葉や声を生めなくなっていただけだ」 「え……?」 “わかる”どころか、混乱は ひどくなる一方。 恐る恐る――初めて――瞬は氷河の顔を窺い見た。 氷河は やはり怒っているようだった。 しかし それは、怯懦なライバルへの怒りではなく――。 「俺は馬鹿だ。おまえが どれほど俺好みで特別な人間でも、言葉や態度で示さなければ、俺の心が 俺以外の人間に通じるわけがなかったのに、俺は その作業を怠った」 自分で自分を叱責し、右手で瞬の肩を掴んで、氷河は瞬の顔を覗き込んできた。 氷河の青い瞳が 瞬の至近距離に迫ってくる。 「あ……あの……」 瞬は 氷河の瞳から視線を逸らすことができず、だが、どこかに逃げたくて――それまで 手許にあった亜麻紙の束を胸に抱きしめることで、そこに自身の緊張を閉じ込めたのである。 二人の間に出現した ささやかな壁を、氷河が鬱陶しそうに 瞬の手から取りあげる。 「何だ、それは」 取りあげたものを一瞥し、氷河は そのまま それを背後に投げ捨てようとしたようだった。 直前で思い直し、寝台の脇の小卓の上に それを置く。 「理想化しすぎだな。俺は、こんなに優しい目はしていない。そんなものより、本物を見ろ」 「あ……」 “本物”が恐いから、瞬は懸命に壁を創ったのだ。 こんなことなら 無視されていた方が よっぽどまし――少なくとも、心臓への負担は小さくて済んだ。 そう思うのに、どうしても氷河の瞳から視線を逸らすことができない。 瞬の肩を掴んでいた氷河の手が 首筋を辿って這い上がり、それは やがて瞬の頬を包んだ。 親指が、瞬の唇をなぞる。 「俺は、おまえを俺のものにする。その代わり、俺自身を おまえにやる。俺のものになってくれ。おまえを手に入れられないと、俺は もう何も描けない。だが、俺は無能者になって修道院などには行きたくないんだ」 「氷河を僕にくれる?」 「ああ。俺は おまえのものだ。紙に写し取る手間が不要になって、何かと便利だろう」 氷河が何を言っているのか、実のところ、瞬には正しく すべてを理解できていたわけではなかった。 しかし、氷河が自分のものになるという 氷河の言葉が 奇跡を約する神の言葉のように思えて、瞬は その言葉に陶然としてしまったのである。 「な……なら、僕も 僕を氷河にあげる」 それは些細な代償である。 氷河を自分のものにすることができるのなら。 そう考えて――むしろ、感じて――瞬は、自分自身を放棄した。 放棄した“瞬”を、氷河が包み込んでくる。 そんな氷河によって――氷河を通して――瞬は、改めて自分自身の存在を認めることになった。 氷河が“瞬”を見ている。 その視線を感じる。 氷河は“瞬”を無視していない。 もちろん、嫌ってもいない。 氷河の腕と胸が“瞬”を抱きしめている。 氷河が“瞬”に何かを囁いている。 氷河が“瞬”の中で撥ね 暴れ もがいている。 だが氷河はもう“瞬”のものだから、絶対に逃がしたりはしない。 氷河を手に入れるのに、こんな やり方があったとは。 自分から進んで 罠の中に入ってきたというのに 逃げようとして暴れている氷河を なだめ、絡みつき、締めつけながら、瞬は歓喜の声をあげた。 本物の氷河が手に入ったのだから、もう氷河を描く必要はない。 本物の氷河を見ればいい。 氷河が欲しくなったら、本物の氷河に抱きしめてもらえばいいのだ。 もちろん、氷河は“瞬”のものだから、“瞬”が氷河を抱きしめることもできる。 そうして、“瞬”は安心して、ヨハネやマリアやミカエルを描いていればいいのだ。 我が身を氷河に与えることで 手に入れた すべてのことが嬉しくて――あまりに嬉しくて、瞬は 寝台の上で その裸身を弓なりに しならせた。 「こんなふうに氷河を手に入れる方法があったなんて」 本物の氷河は、今は、描き損じの氷河より優しい目で 彼の所有者を見詰めていた。 希望の光。 フィレンツェの市民が それを切望する気持ちが、今では瞬にも ともすれば気が遠くなりそうなほど陶然と、同時に痛いほど強く、理解できる――共感できる。 それは、人が生きていくために、パンより必要なものなのだ。 「リヴォルノ侯爵が言っていたの。自分の希望を失わないことと、自分が 自分以外の人の希望でいることは、似ていて違うもの、違うようで同じものなんだって。希望って、誰もが誰かからもらって、そうして 自分の内で 大きく育むものなのかな」 「恋も同じだ。自分一人の力では いかんともしがたい。希望と違って、万人と共有することができないだけだ」 瞬の視線を 自らの視線で捉え、氷河が瞬に囁くように低い声で告げてくる。 また瞬のものになりたい気持ちを抑えられないのか、氷河の手は 先程からずっと瞬の剥き出しの肩や うなじを愛撫し続けていた。 「恋……これが恋っていうものなの……」 氷河の愛撫の手が、瞬の その呟きのせいで ぴたりと止まる。 「瞬。おまえ、今頃 何を――」 「え?」 色々と言いたいことや確かめたいことはあったが、氷河は とりあえず、今はその確認作業はしないことにしたのである。 恋という言葉の意味を知らなくても、人は 恋をすることはできるだろう。 人が、自覚しなくても、自分の内に 希望を育み、また 自分以外の人間の希望になることができるように。 神は、実に 親切なことに、人間を 一人では生きていられないものとして創ってくれたのだ。 否、もしかしたら 神は、人が恋ができるように、人が人の希望になることができるように、人間を一人では生きていられないものとして創ってくれたのかもしれない。 Fin.
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