「瞬」
扉の前に、いつのまにか戻ってきた瞬が立っていた。
この深夜に、本当は不要とわかっている湿布薬を しっかり手に入れてきているあたりに、瞬の生真面目さが窺えたが、だからこそ 氷河には、研修医の心以上に瞬の心が案じられたのである。
氷河は、そして、幼かった瞬が その兄と交わした一つの約束を思い出した。
『どんな つらいことにも耐え抜き、聖衣を手に入れて、必ず 生きて日本に戻ってくる』
瞳を涙で いっぱいにした瞬が 兄と交わした、あの命がけの約束。
あの約束以来、おそらく瞬は 人との約束を破ったことなど一度もなかったに違いない。

『生きて再び』
『必ず地上の平和を』
『最後まで男らしく』
『たとえ力尽き、倒れても』
瞬は 必ず約束を守ってきた。
誰に裏切られ、幾度 騙されても、どんなに小さな約束でも、瞬は 自分が交わした約束は必ず守ってきたのだ。
おそらく 瞬は、人との約束を破った自分に、今 初めて出会ったのだ。
バーの扉の前に立つ瞬の頬は蒼白だった。

「皆来さん……」
「瞬先生……」
悲しいことに、研修医は、もう6歳の子供ではない。
それなりの分別(それは 優しさや思い遣りと同義である)を身につけた成人した大人の男である。
青ざめた頬の瞬を見て、彼は、無理をして作ったことが一目瞭然の微笑を、瞬のために 急いで その顔に貼りつけた。

「ははは。すみません。忘れてください」
「僕は――」
「綺麗なお姉さんだと ずっと信じていて、失礼しました。いや、でも、それは責めないでください。誰に訊いたって、皆、『それは仕方がない』と許してくれると思いますよ」
研修医は かなり失礼なことを言っているのだが、彼への負い目でいっぱいの瞬は それを咎めるどころではない。
軽率に約束を交わし、待っていなかったことへの罪悪感。
彼の十数年間の思いを踏みにじった冷酷。
瞬には、それらすべてのことが 生まれて初めて経験するものだったに違いない。

「でも、まさか瞬先生の恋人が彼だったなんて」
研修医が その件に言及したのは、瞳に涙をにじませ つらそうにしている瞬の上から 涙を取り除くためだったろう。
だが 瞬は、彼の思い遣りに触れて、ますます深く項垂れることになってしまったのである。
「ごめんなさい」
『なぜ謝るんだ』と、ここでクレームをつけるほど、氷河も無慈悲な男ではなかった。
だが、氷河は無慈悲になっておくべきだったのである。
『そうだ。瞬は俺の恋人だ』と、研修医の前で はっきり宣言しておくべきだった。
へたな情に囚われて それをしなかったから、氷河は 自分で自分の首を絞めることになってしまったのだ。

自分の犯した罪の深さ大きさに怯え、小刻みに肩を震わせている瞬。
自分が傷付けてしまった人の心の痛みを 当人より強く感じ、瞳を涙で いっぱいにしている瞬。
罪悪感と研修医の思い遣りが、邪神の攻撃より一層 強く鋭い攻撃を 瞬の心身に加えている。
まるでアテナの聖闘士になる前の非力で小さな子供に戻ってしまったような瞬を、じっと見詰めていた研修医の瞳が、その時 一瞬 奇妙な輝きを垣間見せた。
「なら、僕にも可能性はあるかなあ」
「え……?」
研修医が何を言い出したのか、咄嗟に理解できなかったのは瞬だけではなかった。
「なに?」

「瞬先生、僕は、20年近く、瞬先生だけを思ってきたんです。今更、この思いを絶ち切るのは難しい」
「あ……それは……」
「おい、貴様!」
「僕、カクテルは作れませんけど、料理、洗濯、掃除はできます。瞬先生の好みのタイプがわからなかったので、とにかく何でもできる男になろうと、そういったことへの努力は惜しまずにきたんです」
「皆来さん……?」
「失礼ながら、経済面で 僕が氷河さんに劣るとは思えませんし、容姿も、氷河さんは男のそれとして特殊すぎるでしょう。僕の方が 瞬先生の美しさを引き立てるには ほどいい。もちろん健康、危険な病気の因子もありません。スポーツも 一通りはこなします。何より 瞬先生を心から愛し、崇拝している。瞬先生も、僕を選べば、約束を違えた罪悪感から解放される。あらゆる面で、彼より僕の方が 瞬先生の ためになる男だと思うんです」
「……」

研修医の売り込みを、最初のうちは、氷河でさえ何かの冗談だと思っていた。
だが、研修医の顔は 至って真面目。その目は真剣そのものである。
その段になって、氷河は 遅ればせながら気付いたのである。
研修医は 大人の分別を備え、アテナの聖闘士のような力を持っていない代わりに、地上支配を目論む邪神の力も持たない一般人。
常識的で良識的な、いわゆる善良な一市民。
すなわち、アテナの聖闘士が守るべき存在である。

しかし、アテナの聖闘士が守るべき存在が、アテナの聖闘士より非力な存在であるかというと、決して そんなことはないのだ。
それが邪神との戦いの場でなら ともかく、恋という戦いの場では。
そして その戦いの場で、彼に戦うための意思と力を与えてしまったのは、他の誰でもない この店のバーテンダーだった。
この店のバーテンダーが 瞬と唇を重ねている場面を見て、“同性だから”という理由で 瞬への恋を諦めかけていた この男は、そんな障害は乗り越えようと思えば乗り越えられるものだということに気付いてしまった――氷河が 彼に その事実を気付かせてしまったのだ。

その上、この善良な一般市民は、善良なだけの男ではない。
彼は、約束を守らなかったことに負い目を感じ、罪悪感を抱いている瞬の心に 付け入る したたかさを持ち合わせている男のようだった。
善良な一般市民というものは、必ずしも アテナの聖闘士より弱い存在ではない。
むしろ、邪神との戦い以外の場面では、アテナの聖闘士に抗し、抗するだけでなく打ち負かす力をさえ 備えている存在なのだ。

「瞬先生。僕は、あの時 乗っていた自転車のチェーンロックを 今も持っているんですよ。瞬先生と僕を結びつける大切な約束の鎖だから、どうしても捨てることができなかったんです」
したたかな研修医が、力ではなく“健気”を武器に 瞬への攻撃を仕掛ける。
「皆来さん……」
研修医の攻撃を受けた瞬の瞳が熱く潤み、
(こンの 糞ガキ〜っ !! )
氷河には、これほど強大凶悪な力を持つ敵に 攻撃を加えることが許されなかった。

それが 一般人であれ アテナの聖闘士であれ――人として生まれた存在が経験する 最も過酷で熾烈な戦いは、悪との戦いでも 神との戦いでもない。
それが 一般人であれ アテナの聖闘士であれ――人として生まれた存在が振るうことのできる 最も強力で優れた武器は、銃でも 拳でもない。

それは、アテナの聖闘士として強大な力を持つ邪神と戦い、打ち勝ち、生き延びてきた水瓶座の黄金聖闘士アクエリアスの氷河が 初めて、善良な一般人の持つ力の強大さを思い知った 記念すべき夜だった。






Fin.






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