「やっぱり、駄目かぁ……」 事の顛末を確かめて、瞬は長く細い溜め息を洩らした。 「僕、あんなに奥手で鈍感だったかな……」 瞬の呟きが愚痴めいた響きを帯びることになったのは致し方のないことだったろう。 物理的に 世界の何を変えるわけでもない。 時の流れの法則を乱すわけでもない。 変わるのは自分の記憶量のみ。それも、いずれは自分のものになる記憶を ほんの少し、ちょっと早めに自分に見せてやっただけ。 もちろん、神の領域に片足を突っ込んだような その力を、個人のために使うべきではないことは わかっていたのだが、それをしないでいると、いずれ地上の平和を守るための戦いに支障が出ることにもなるのではないかと案じて、瞬は あえてそれをしたのだ。 だというのに、結果は失敗。 ただの失敗なら まだよかったが、(一応)地上の平和のことも考えて為したことを 邪神の仕業と誤解されるという、途轍もない大失敗に終わってしまったのだから。 それは すなわち、神の域に達すると評されるほどの力を持つ黄金聖闘士・バルゴの瞬が、甘すぎて戦いに向いていないと敵にも味方にも侮られる最悪の青銅聖闘士・アンドロメダ瞬に、完全な敗北を喫したということ。 瞬の吐息が――バルゴの瞬の吐息が嘆息になり、その呟きが愚痴になっても、それは致し方のないことだったろう。 朝の光の中。 隣りには氷河が眠っている。 朝の7時に自動的に開くようにセットしてあるカーテンは、とうの昔に全開状態。 夏場の陽光ならともかく、秋の朝の やわらかい陽光は、氷河の目を覚まさせるには 少々 力不足のようだった。 「もう……幸せそうな顔して、憎らしい」 憎らしいのに、氷河が あまりに幸せそうな寝顔をしているので、叩き起こすに忍びない。 青銅聖闘士だった頃の甘さが まだまだ自分の中に残っていると思わざるを得なくなって、氷河を 憎らしいと思う瞬の心は 更に大きなものになった。 敵に対峙している時には、こんなにことは(もう)ないのに、氷河といると どうしても アンドロメダ座の聖闘士だった頃の自分が 顔を出してくるのだ。 憎らしいのに、他の何より、他のどんなことより、瞬に幸せを実感させてくれるもの。 今日も これを朝食代わりにして出掛けるしかなさそうだと、そんなことを考えながら、瞬は 氷河の裸の胸に、自らの上体を乗り上げた。 そのまま、氷河の心臓の上に 頬を押し当てる。 氷河が生きていることを確かめるため。そして、彼に目覚めてもらうため。 以前、このまま眠らせておいてやろうと考えて、氷河を起こさずに家を出たことがあったのだが、それから しばらくの間、氷河はずっと機嫌を悪くしていた。 『明日の朝 目覚めれば、最初におまえの顔を見られると期待して眠ったのに、その期待を裏切られた』と言って拗ねる氷河を なだめるのに苦労して以来、瞬は、二人で夜を過ごした翌朝は必ず氷河に『おはよう』を告げることにしていた。 「ん? どうした?」 秋の朝の陽光にはできなかった仕事を、瞬の身体の重みと体温は首尾よく成し遂げることができたらしい。 瞬は、今朝は、『おはよう』の代わりに とびきり優しい微笑を氷河にプレゼントした。 「ねえ、アクエリアスの氷河さん」 「何だ。バルゴの瞬様」 「僕、明日は普通に日勤で 8時には病院に行ってなきゃならないって、夕べ氷河に言ったと思うんだけど」 「そういえば、そんなことを言っていたな」 胸の上にある瞬の髪に、氷河が指を絡めてくる。 それだけなら、どんな意味もない ただの戯れなのだが、氷河の手と指は やがて緩急をつけて瞬の頭を撫で始める。 その所作を、瞬はずっと、氷河は 彼の恋人を子供扱いして 大人ぶっているだけなのだと考えていた。 が、ある時、氷河に頭を撫でられて気持ちよくなっている自分に気付き、瞬は呆然としてしまったのである。 氷河は“大人ぶりたい子供”を装って、その実 瞬自身も気付いていなかった 瞬の性感帯を刺激していたのだ。 そんなふうに、氷河は油断のならない男だった。 「僕が 氷河の押しに負けたのが悪いんだけど……」 「それは 悪いことではないだろう。そもそも おまえは俺に勝てたことがな――いや、おまえは優しいから、いつも俺に負けてくれる」 ベッドの上での氷河の言葉を素直に信じるほど、瞬はもう子供ではなかった。 しゃあしゃあと言ってのける氷河を、軽く睨みつける。 「僕、夕べは ほとんど眠らせてもらってないんだよ。寝不足で 患者さんの診察をするなんて」 「黄金聖闘士ともあろうものが、何を言っている。2、3日くらい眠らなくても、おまえは平気だろう」 「それはそうだけど、でも、少しは加減してくれたって――」 「おまえが、俺にインサートさせずに終わらせようとして、あれこれ 手練手管を弄してきたのが よくない。俺は、意地でも おまえを俺自身のもので 天国に連れていってやろうという気になる」 「どうして そんな子供みたいな意地を張るの!」 そんな言葉で氷河を責めている自分に 目眩いを覚える。 氷河ほど 子供の部分と 大人の部分を巧みに利用している人間を、瞬は知らなかった。 質の悪いことに、氷河は、子供の振りをしている時ほど 狡猾で油断がならない。 「僕だって、僕の持っている医学知識に氷河の体力や精力を あてはめて考えるほど馬鹿じゃないけど、氷河は いつも、次の機会はないと思ってるみたいに限度がないの。おかげで 僕は、氷河と過ごした翌日は 必ず朝食をとらずに仕事に行かなきゃなくなる」 「それは仕方がない。最も 盛りがついていた年頃に、清らかで鈍感なおまえのせいで、俺は厳しい忍耐を強いられていたんだ。あの頃、おまえが俺のものになってくれていたら、俺も 今頃は もう少し落ち着いていたかもしれないが」 「……」 『清らかな おまえを汚すまいとして、男の欲望をひた隠し、じっと耐えていた頃の自分を思い出すと、おまえを 思い切り泣かせて、喘がせて、“ごめんなさい”を言わせなければ気が済まない衝動に かられるんだ』 それが氷河の言い分だった。 無論、瞬は、氷河の そんな言い分を完全に信じてはいなかったが、かといって完全に否定することもできずにいた。 それは、(身体の)医学的には あり得ないことである。 しかし、精神医学的には 絶対にないとは言い切れない事象なのだ。 だから、その検証のために、性交が可能になった年頃の瞬に 二人がこういう関係になるという情報を与え、氷河が“厳しい忍耐”を強いられずに済む状況を作ってみようとした。 だというのに、10代の自分は、断固として それを拒否してくれたのだ。 バルゴの瞬の力をもってしても打ち破ることのできない鉄壁の防御。 まさに難攻不落の要塞――アンドロメダ瞬。 当時まだ青銅聖闘士だった氷河に、あの頑なな子供を容易に攻略できたわけがない。 むしろ、その至難の業を、決してスムーズにではなく長い時間を要したにしろ、ともかく成し遂げたキグナス氷河の不屈の闘志をこそ、自分は称賛すべきなのかもしれない――と思う。 アンドロメダ瞬とキグナス氷河。 二人は、確かに ただ者ではなかったのだ。 キグナス氷河の執念に比べたら、アクエリアスの氷河の絶倫など、取るに足りない些事なのかもしれなかった。 「続きは また今度」 そう言われて不満顔になった氷河をキスで なだめ、瞬は氷河の腕を すり抜けた。 急いで身仕舞いを整え、職場に向かわなければならない。 飛び込んだドレッシングルームの鏡に映る自分の中にアンドロメダ瞬の面影を見付けて、バルゴの瞬は、 「この頑固者」 潔く 自らの負けを認めたのだった。 Fin.
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