贈答品の表書きだけは30人分 書き終えた。 図書室のテーブルの上には、名を書き終えた和紙が 墨が乾くのを待って ずらりと並べられている。 業者に配送を委託するものと、沙織が直接 先方に持参するものとで、それらの扱いは異なるらしいのだが、さすがに 瞬は そこまでは知らされていなかった。 便宜上、“熨斗”と言っていたが、瞬が字を書く紙には水引は印刷されていない。 先方が欲しいのは瞬の書く文字だということを知ってから、沙織は 贈答品の表書きには 熨斗の代わりに無地の和紙を使うようになっていた。 もちろん、容易に手に入るような ありふれた和紙ではない。 人間国宝が漉いた、最高級の出雲雁皮紙である。 墨も硯も、沙織は、稀有な能書家に ふさわしいものを用意してくれていた。 書く名も、贈り主である沙織の名だけではなく、贈答品を贈る相手の名の方を大きく書く。 それは むしろ、熨斗というより、大きな封書の表書きだった。 「沙織さんは いったい何を考えているんだ。アテナの聖闘士に、熨斗の名入れをさせるとは。おまえも 嫌なら断わればいいのに。こんなことを続けていると、沙織さんは そのうち、定礎や書籍の題字の仕事を取ってきかねないぞ」 図書室に やってきた氷河が、本来は書籍閲覧用の大テーブルに並べられている表書きを見やり、瞬に任されている仕事を快く思っていない口調で 忌々しげに言う。 ほとんど 乾きかけていた それらを、瞬は 氷河の目から隠すように 素早く重ね集め、テーブルの隅に寄せた。 「これがアテナの聖闘士のすることか。おまえもいい迷惑だろう。人の名なんて、絶対に間違えてはならないものだし、気を遣う」 「そんなことないよ。知らない人の名前と 簡単な挨拶文を書くだけだから、誰かを傷付けるわけじゃないし。でも、僕の字、何の変哲もない字だと思うんだけど……。筆の持ち方も、単鉤法からも双鉤法からも逸脱してて、完全に自己流だし」 「そうなのか? 絵には それなりの好みもあるが、俺には 書は良し悪しすら わからん。楷書、行書、草書の区別もつかないしな。たまに、到底 文字を書いたものとは思えない書もあるじゃないか。まるで何かの記号を書いたような。沙織さんも言っていた通り、おまえの書く字は綺麗で優しいとは思うが、正直、色紙1枚に5万円なんて値段をつけていいようなものだとは――いや、本当に よく わからんのだが……」 そう言いながら 氷河は、瞬がテーブルの隅に寄せた紙を1枚 手に取り、それをしげしげと眺めてみたのである。 その紙は、だが すぐに瞬によって奪い取られてしまった。 「ぼ……僕自身にも わからないんだから、当然だよ」 「しかし、各界の大物たちが こぞって欲しがるものなんだから、おまえの書く文字は よほど優れたものなんだろう。紙が余っているのなら、それに『氷河』と書いて、俺にくれ。家宝にしよう」 「だめっ!」 氷河は、もちろん、そんなことを本気で瞬に求めたわけではなかった。 瞬の書く文字の価値がわからないことは癪だったが、瞬の書く文字より 瞬自身にこそ、より大きな価値があることは わかっている。 氷河には、そのことの方が はるかに重要なことで、そのことがわかってさえいれば十分だとも思っていた。 氷河は、もちろん、軽い気持ちで、半ば冗談で そんなことを言ったのである。 だからこそ、言下に仲間の望みを退ける瞬の鋭い声に、彼は少なからず驚いた。 「? なぜだ。すぐ書けるんだろう」 「か……書けるけど……あの、そんなことより――」 「そんなことより?」 「氷河にキスしてもらいたいかなぁ……って」 「……」 考えるまでもなく、瞬の書く文字より、瞬の唇の方がいい。 瞬の外部にあるものより、瞬そのものの方がいいに決まっているのだが、瞬が 自分から そんなことを求めてくるのは実に珍しいことで、氷河は瞬の その言葉を訝ることになった。 だが、もちろん、瞬の書く文字より、瞬の唇の方がいい。 氷河は、からかうように瞬に尋ねた。 「キスだけでいいのか」 「キスの他にも もっと いろんなことをしてくれるのなら、その方が嬉しいけど、ここを片付けないと」 「墨まみれになってラブシーンなんて、ぞっとしないな。筆や羽根で くすぐるプレイはあるそうだが」 「筆なんか使わなくても、僕、氷河の髪が肌に触れるだけで どきどきするよ」 『氷河』という文字を書くことで 何らかの不都合が生じると、瞬が思っているのなら、それを無理強いしようとは思わない。 氷河は、家宝を手に入れることを すみやかに諦め、瞬に頷いた。 「片付けを手伝おう。沙織さんからの頼まれごとは、急いで終える必要はないんだろう?」 氷河の申し出に、瞬が 安堵したように肩から力を抜く。 そんなことには気付かぬ振りをして、氷河は、萩の花を描いた蒔絵が施された文箱に 未使用の紙を収め、蓋をした。 |