ギリシャ文字は、漢字とは異なり、基本的に表音文字である。
日本で育ち 日本の教育を受けたからなのか、それとも、神は 言語の違いの制限を受けることがないのか、氷河にも わからない瞬の文字の価値を、沙織は わかっているようだった。
名入れと挨拶文書きの作業依頼から5日後。
瞬の仕事に大いに満足したように、彼女は瞬の仕事の成果を引き取っていった。
沙織がいなくなったラウンジで、星矢が不満げにぼやく。

「沙織さん、瞬に バイト代くらいくれればいいのになー。当たりまえみたいに毛筆ソフトが出まわっている今でも、熨斗の名入れの仕事してる人って いるんだろ。俺、調べたんだぜ。お歳暮お中元シーズンに、デパートなんかで そういうの雇い入れるって。色紙1枚が5万円の瞬に ただ働きさせるなんて、グラード財団の総帥が せこすぎるじゃん。山岡鉄舟なんて、代金の代わりに 一筆 書いて、あんパンや蕎麦を ただ食いしまくってたっていうぜ」
あんパンや蕎麦を ただ食いできる書――文字。
そういう意味で、星矢は、優れた書に価値を感じることになったらしい。
そして、そういうことであれば 熱心に調べることもするらしい星矢に、紫龍は苦笑した。

「瞬。おまえも、必死に字の練習をしていた頃には、まさか こんなことになるとは思ってもいなかったろう」
「え?」
“瞬”が字の書き方の練習をしていたことを、瞬の仲間たちが知っているはずがなかった。
まるで見ていたように そんなことを言う紫龍に、瞬は怪訝な顔を向けることになったのである。
紫龍が、瞬に 心得顔で微笑を返してくる。

「俺は、おまえが図書室の奥で、字を書く練習をしているのを見たことがある。手本は、筆できなくペン字の教本のようだったが。途轍もなく真剣な顔で練習をしていたから、声もかけられなかった」
「あ……」
「瞬。おまえ、俺たちに隠れて、まじで 字の練習なんてしてたのかよ? 字の練習してたなんて、天賦の才を隠すための謙遜の嘘かと思ってたぜ。そんな時間、よくあったな。俺たち、ずっと敵さんと戦ってばかりで――」
「瞬が文字の練習をしているのを 俺が見たのは、俺たちが聖闘士になる前のことだ」
「へ?」
瞬は、聖闘士になって日本に帰ってきてから、日本語の書き方を忘れている自分に気付いて、慌てて 字の書き方を練習を始めた――のではなかったのか。
瞬の自己申告と、紫龍の証言の食い違いに、星矢は首をかしげた。

「あ……あの……紫龍……」
突然 瞬が、落ち着きなく あちこちに視線を泳がせ始める。
瞬が なぜ そんなふうになるのかを、紫龍は知っているらしい。
彼は、
「氷河なら、しばらく ここには来ない。ワインセラーの環境管理システムの調子が悪いとかで、温度調節作業のために、さっき 辰巳に引っ張られていった」
と 言って瞬を安心させてから、
「俺は、子供の頃、俺たちが それぞれの修行地に送られる前に、氷河がマーマからの手紙を読んでいるのを見たこともあるぞ」
と、本題に戻った。

「マーマからの手紙って何だよ」
日本に来るまで 母親と同居していた氷河が、マーマからの手紙など持っていたはずがない。
星矢は、紫龍の言に首をかしげた。
「瞬が氷河のために書いた手紙だ。おそらく」
という紫龍の補足説明が、更に深く 星矢に首を かしげさせる。
「どういうことだよ。瞬が氷河のために書いた……?」
星矢が 顔が肩に食い込むほど首をかしげても、“瞬が氷河のために書いた手紙”は“瞬が氷河のために書いた手紙”。
それ以上の説明は、紫龍にもできなかった。
氷河が読んでいた手紙が 瞬の書いたものだということさえ、紫龍の推察にすぎなかったのだから。

それ以上の説明ができるのは、氷河に その手紙を書いた人間だけ。
無言で、紫龍は 星矢と瞬に そう告げ、彼にそう告げられた瞬は――瞬は観念するしかなかったのである。
紫龍の推察は、事実を見抜いたものだったので。
それでも しばし ためらってから、瞬はゆっくりと尻込みするように 口を開いた。
「僕……子供の頃、氷河が泣いているのを見たことがあるの。マーマのロザリオを見詰めて、庭のマロニエの木の陰で、みんなから隠れて、身体を小さく丸めて、声を押し殺して。そこは、僕が いつも みんなから隠れて、兄さんからも隠れて、一人で泣くための場所だったんだよ。多分、氷河は、僕に見られたことには気付いていなかったと思う。きっと 氷河は、泣いているところを 誰にも見られたくないんだろうって思って、僕、そっと そこから逃げ出したから」

「あの氷河が泣いてた……?」
星矢が、意外そうな顔をして反問するのも当然のこと。
子供の頃の氷河は、(今と違って)全く泣かない子供だった。
母を目の前で失った衝撃が大きすぎて 泣き方を忘れてしまったのではないかと思うほど。
泣いている氷河を 瞬が見たというのなら、それは 氷河がやっと 母の死を現実のこととして受け入れられるようになった頃のことだったのだろう。
そして、初めて見る氷河の涙は、『氷河は強いから泣かないのだ』と思い込んでいた瞬の胸を強く打つものだったに違いない。

「僕、氷河がマーマがいないことを寂しがっているのなら、慰めてあげなきゃならないと思ったんだ。どんなことをしても、必ず、絶対に、氷河を慰めて 力付けてあげなきゃならないと思った。でも、氷河が慰めてほしいのはマーマで、僕なんかが どんなに慰めても、どんなに励ましても 駄目だっていうことは わかっていたから……。だから 僕、マーマの振りをして、氷河に手紙を書くことにしたんだ。けど、僕がマーマの振りして氷河に手紙を書いても、それが子供の字だったら、すぐに 氷河は それがマーマからの手紙じゃないことに気付く。気付いて、傷付いて、きっと悲しむ。氷河は また泣いてしまうかもしれない。だから、僕、内緒で 大人の字を書く練習をしたんだ。ペン字や お習字や――図書室にお手本は いくらでもあったから――」

「大人の字を書く練習――って……」
それは 普通の子供には思いつかない発想である。
普通の子供は、挑む前に諦める。
普通の子供は、そんなことができるとは思わない。
その難事業に挑んだというのなら、瞬は それほど――仲間たちに隠れて、ひっそりと泣いていた氷河の涙に それほど――強い衝撃を受けたのだろう。
そして、悲しむ氷河の心を慰め、力づけてやりたかったのだ。

「そっか……」
大人しくて、引っ込み思案。いつも兄の陰に隠れていた泣き虫の瞬。
到底、聖衣を手に入れて生きて帰ってくるとは思えなかった ひ弱な瞬。
だが、アンドロメダ島に修行に行く前から、瞬の中には 桁外れの強さがあったのだ。
ただ、その力は、悲しんでいる人、苦しんでいる人、打ちひしがれている人のためでなければ発現しない力だった――。

「字は わりとすぐに書けるようになったんだよ。子供に読ませる手紙には、大人だって難しい漢字は使わないでしょう? だから、漢字を覚える必要はなかったから。けど、文章の方は そうはいかなかった。お手本もなかったし……。それが マーマからの手紙だと 氷河に信じてもらうためには、氷河のマーマが 氷河に対して どんな気持ちでいるのかを考えて書かなきゃならない。マーマが どんなに氷河を愛しているか、マーマが どんなふうに氷河を愛しているか、マーマなら 氷河に どんなことを伝えたいか――」
「マーマが どんなに氷河を愛しているか、マーマが どんなふうに氷河を愛しているか――かあ。やたらと 人の気持ちを考える おまえの癖って、それで培われたわけか」
そして、もしかしたら 氷河を愛する瞬の気持ちも――?

「文字は心で書くもの。瞬の書く字が優しいのは当然のことだ。瞬の字は、悲しんでいる仲間を慰め 力づけるための字なんだから。おそらく、上手い下手の問題ではないんだろう」
「ん……多分な」
そのことが、わかる人間には わかるのだろう。
瞬の身に――瞬の字、瞬の心に、馴染み、溶け込んだ 優しさが。

「氷河には言わないで」
瞬は、その事実を氷河に知られ、氷河を傷付けたくないのだろう。
瞳に涙を にじませた瞬に懇願され、星矢は戸惑った――困ってしまったのである。
多分、氷河は――少なくとも、今の氷河は――事実を知っても傷付かないだろうと思えるから。
星矢が、視線で紫龍に意見を求める。
紫龍は、星矢とは異なり、そんな瞬に 全く困っている様子がなかった。
「言うなというのなら、俺は言わないが、氷河は気付いていると思うぞ」
「え……」
紫龍の その言葉に、今度は瞬が困惑の表情を浮かべる。

「や……やっぱり、僕の字を見て 気付いちゃったのかな……」
「それは どうか……。だが、俺が思うに、氷河が その事実に気付いたのは、氷河が日本に帰ってくる以前のことだ。気付いていたから、氷河は、日本で おまえに再会するなり、なりふり構わず、おまえへのアプローチを開始したんだろう。優しい心で優しい字を書く人を、自分のものにするために」
「あ……」

紫龍が そう言うなら、そうなのかもしれない――と、瞬は思った。
そういったことで、紫龍の推測が外れることは滅多にない。
だが、だとしたら なぜ――なぜ 氷河は気付いたのか。
なぜ 気付いているのに、何も言わないのか。
氷河は なぜ、彼を騙した仲間を責めないのだろう。
誰よりも大切な母を、他人に騙られ、蹂躙されたというのに。
仲間を騙した仲間を責めも なじりもせず 微笑しているだけの紫龍と星矢の前で、瞬は迷い 困惑し、力なく その瞼を伏せた。






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