その国は、神によって 選ばれた人間だけが暮らすことを許された国でした。 浅ましい我欲や傲慢、妬み、怠惰。 そういった悪徳を知らず、かつ、姿も美しい者だけが住むことを許された国。 争いも貧困も飢餓も醜悪もなく、平和と幸福が約束されている国。 その国の名はエリシオン。 エリシオンは、地上世界と冥界を隔てる次元の狭間に 静かに たゆたっていました。 理想郷エリシオンが なぜ そんなところにあるのかというと、エリシオンは、冥府の王ハーデスが 自らの理想の実現のために作った国だったからです。 地上世界に あふれている醜い人間たち。 自分の中にある欲を満たすことしか考えず、自分以外の人間のことも、自分が生きている世界のことも顧みない醜悪な人間たち。 彼等は 自分たちが生きている地上世界を蝕み、汚し、その上、死後は冥界にやってきて、冥界までをも醜悪の色に染めていく。 そんな地上世界を見るのも、そんな冥界を見ているのも不愉快だったハーデスは、彼の理想通りの美しい国を作り、その国を愛でて過ごそうと考えて、理想郷エリシオンを作ったのです。 彼は、強大な力を持つ冥府の王でしたから、彼の力をもってすれば、地上に あふれている醜悪な人間たちをすべて 滅ぼしてしまうこともできたのですが、そんなことをしても無意味。 そうなれば、 醜い人間たちは 今度は大挙して冥界に移動してくるだけですからね。 それでは、冥府の王は 結局 醜悪な世界を見ていなければなりません。 それでは、何の解決にも ならない。 ですから 彼は、彼のエリシオンに、彼の意に適った“美しい”人間だけを集めることにしたのです。 そして、彼に選ばれたエリシオンの住人達に、永遠の命、永遠の若さ、永遠の幸福を約束しました。 デュカリオンの洪水から500年ほどの時間が経っていたでしょうか。 地上世界には、今では、デュカリオンの洪水以前と大差ないほど 多くの人間が生きていましたが、ハーデスに選ばれた人間は、これまでに ほんの十数人。 一度 エリシオンで暮らすことが許されても、ハーデスに逆らった者や ハーデスの気に入らない醜い行為をした者は すぐに エリシオンから追い出されてしまいましたから、エリシオンに住んでいる人間は いつも ごく少数でした。 瞬が その国に連れてこられたのは、瞬が13歳の時でした。 瞬は、エリシオンで最も若い人間。 ハーデスがエリシオンの民に選ぶのは、これまでは どれほど若くても18歳以上の人間でしたので、瞬は 特にハーデスに気に入られた人間だったといえるでしょう。 そもそも ハーデスは子供が嫌いだったのです。 幼い子供というものは、とにかく 自分の意思を通そうとするもの。 従順の美徳には恵まれていませんから。 ですが、瞬は、そんな普通の子供とは違っていたのです。 瞬は、優しく清らかな心を持ち、物腰は穏やか、そして、争い事が嫌い。 もちろん、清らかな心に ふさわしく、姿も美しい。 醜悪な人間界に置くのは勿体ない――むしろ、醜悪な人間世界に置くのは危険。 そう考えたハーデスは、瞬が“大人”と呼べる歳になるのを待たずに、瞬をエリシオンに連れてきたのです。 広いエリシオンの国には、そんなふうにハーデスに選ばれた人間の他に、ハーデスに絶対服従のニンフたちが大勢いて、彼女等がエリシオンの住人たちの日々の暮らしの世話をしていました。 ですから、住まう者が ほんの数人しかいなくても、エリシオンの住人たちの生活には どんな不自由もなかったのです。 瞬が エリシオンに来たのは ハーデスに さらわれたからではありませんでした。 決して、無理矢理 連れてこられたわけではありません。 人間界にいる時、瞬は女神アテナの許で、仲間たちと共に、地上の平和を守るために戦っていました。 ですが、その戦いは いつまでも続き、終わる気配は一向に見えない。 それというのも、人間たちの醜悪さを不快に思った神々が、地上世界に生きている人間たちを滅ぼそうと、次々に攻撃を仕掛けてくるせい。 そんな神々に従う戦士も多く、彼等は自分たちの戦いを正義の戦いと信じていました。 これでは、争いのない平和な時が訪れるはずもありません。 誰もが――人間世界を滅ぼそうとする者たちも、アテナに従い 人間世界を守ろうとする者たちも――自分たちの戦いを正義の戦いだと信じているのですから。 利害のための戦いは、自分の利益を諦めれば終わりますし、妥協することもできますが、信念は曲げられないものですから。 もともと 瞬は、戦いが嫌いでした。 地上に住む人間たちが皆 善良でないことも 知っていました。 それでも 人間は醜悪なだけではない。人を愛し 慈しむ心も持っている。 だから 彼等を守らなければならないのだと考え、必死に戦い続けていたのです。 けれど、瞬の戦いの日々は いつまでも終わらない――。 争いや戦いの絶えない世界で戦い続けることに疲れていた瞬は、ある日 ふと考えてしまったのです。 もしかしたら 争いのない世界を実現することは無理なのではないか――と。 ハーデスが瞬の前に 姿を現わしたのは、そんな時でした。 ハーデスは、瞬に『争いのない世界を見せてやろう』と言いました。 戦いに倦んでいた瞬は、そんなハーデスに『見せてほしい』と答えてしまったのです。 いつかアテナの聖闘士たちの戦いは終わる。 争いのない平和な世界の実現は 決して不可能なことではないと思いたかったから――信じたかったから。 そうして連れてこられたエリシオンは、確かに争いのない世界でした ですが、エリシオンにある平和は、瞬が見たかった平和とは違う平和だったのです。 エリシオンに住む住人たちが争い合わないのは、彼等が皆、ハーデスの力を恐れているからでした。 エリシオンの住人は、ハーデスの意に沿わないことをして、何不自由なく安穏と暮らせる生活を失いたくないから 他者と争わないだけなのです。 彼等は、人と争わないために、他者と触れ合うこともしませんでした。 そう。彼等は何もしないのです。 けれど、そんな人間は、やがて 怠惰な者として エリシオンを追い出されてしまうのです。 瞬が エリシオンに来た時、そこには十数人の人間がいました。 今では、エリシオンの住人の数は もっと減っていることでしょう。 どんなに探しまわっても、瞬がエリシオンの野で 人に出会うことは ありませんでしたから。 人間がいないから、争いのない国。 瞬が エリシオンに来たことを後悔するようになるのに 長い時間はかかりませんでした。 瞬が見たかったのは、多くの人間が 力や恐怖や無関心ではなく、優しさや 他者を慈しむ心ゆえに争いを起こさない世界だったのに、エリシオンは そうではなかったのです。 瞬は、自分だけが平和で争いのない世界で生きていたいとは思っていませんでした。 ですから瞬は、元の世界に戻してくれと、仲間たちの許に帰してくれと、幾度も ハーデスに頼んだのです。 けれど、ハーデスは 決して瞬の帰還を許してくれませんでした。 それを許してくれなかったのです。 神との契約で ここに来た人間は、神が その契約を破棄する気にならない限り、そんな勝手は許されないと、ハーデスは言うのです。 『では その契約を破棄してくれ』と言うと、そのつもりはないという返事。 『あなたの許可を得ずに出ていく』と言えば、そんなことをしたら 人間界にいる兄を殺すと、ハーデスは瞬を脅してきました。 もしかしたら エリシオンにはもう 人間は自分しかいないのではないかと、自分に対するハーデスの執着を見て、瞬は疑ったのです。 兄のことさえなかったら、瞬は とうにハーデスが作った理想郷から逃げ出していたでしょう。 少なくとも、そのための努力はしていました。 それが自分の――人間の――力で 可能なことなのかどうかはわかりませんでしたけれど。 ですが、冥府の王ハーデスは、異次元に彼の世界を作るほどの力を持つ神。 その気になれば、瞬の兄の命を奪うことは容易でしょう。 すべての人間を滅ぼすこともできる神。 ハーデスの力の強大を思うと、瞬は 迂闊なことはできなかったのです。 |