「俺は、ガキの頃から瞬が好きだった。だから、ずっと そのペンダントが目障りだったんだ。瞬に訊くと、兄さんからもらったと大事そうに見詰めて言うし、その上、刻まれている文言が文言。そんなものを瞬が身につけているのが、俺はずっと不愉快でならなかったんだ」 瞬が それを『(兄さんからもらった)母の形見だ』と氷河に言わなかったのは もちろん、そんなことを言って、氷河に氷河のマーマのことを思い出させるようなことをしたくなかったからでした。 そんなことをして、大切なマーマを失った氷河を悲しませたくなかったから。 それが母の形見だと氷河に知らせないことで 何らかの不都合が生じるとは思えませんでしたからね。 ともあれ、ですから、氷河が そのペンダントを不愉快に思っていたというのは、瞬が 今初めて知る事実だったのです。 そして、けれど、瞬が大切にしているペンダントを 氷河がなぜ不愉快に思っていたのか、その訳までは 瞬には わかりませんでした。 氷河は、地上の平和を守るために戦う聖闘士の勘で、実は そのペンダントが邪神によって母の形見と思い込まされている不吉なものだということを感じ取っていたのだろうと解釈することで、瞬は すぐに“氷河の不愉快”を正当なものだと得心しましたが。 事実は そうではなく、氷河は、“自分以外の男から贈られたものを、瞬が大事に身につけていること”を不愉快に思っていたのですけれど、そんな事実は 今はどうでもいいことです。 今 最も大事で重要な事実は、“氷河が そのペンダントを不愉快に思っていた”ということ。 氷河の不愉快を知らされたハーデスは、氷河とは逆に 大層 愉快そうに、唇の両端を上げて 得意げな微笑を作りました。 「それは残念であったな。だが、瞬は余のもの。幼い頃から、このペンダントは 瞬の傍らにあった。せめて、運命の女神たちの前で 余と瞬が 決して覆すことのできない契約を結ぶ前に そのペンダントを破壊していたら、事情は違っていたかもしれないが、今更 そんなことを言っても、それは詮無きこと。あの時、瞬の運命は決したのだ」 ハーデスは得意の絶頂。 彼は、自分の段取りのよさに 自分で惚れ惚れしているようでした。 そんなハーデスに比して、氷河は不愉快の絶頂? 失意の どん底? いいえ、そうではありませんでした。 氷河は むしろ淡々とした様子で、ハーデスに再度の確認を入れました。 「そのペンダントに依って、瞬の運命は定まっているんだな? それは、神にも覆すことのできない瞬の運命なんだな?」 「その通りだ」 ハーデスは、自分が得意の絶頂にいるせいで、氷河が失意の どん底にいないことに気付いていないようでした。 「氷河、このペンダント、外せないんだよっ」 瞬が、切なく身悶えるように 氷河に訴えます。 瞬への氷河の答えは意外なものでした。 瞬にとっても、ハーデスにとっても。 氷河は 抑揚のない、けれど 力強い声で、 「外す必要はない」 と、瞬に告げたのです。 「え?」 「外せなくても、刻まれている文字は読めるだろう」 「う……うん」 「読んでみろ」 氷河に そう言われ、瞬は、裏返しにしていたペンダントヘッドを手に取り、氷河に言われた通りに その文字を読んでみたのです。 外そうとしさえしなければ、それは何の変哲もないペンダントでした。 氷河に言われた通り、ペンダントヘッドに刻まれている文字を読んだ瞬は、暫時 声を失ってしまったのです。 「そんな……どうして……いつのまに――」 何とか気を取り直し、声を取り戻した瞬が、まるで運命に問いかけるように呟きます。 答えは 運命からではなく――いいえ、やはり それは瞬の運命だったのでしょう――氷河から返ってきました。 「おまえに初めてキスした時に、おまえが嫌がらず、嬉しそうだったから」 「それは……嬉しかったけど……」 「おまえの心を確かめて、そうしても おまえは怒らないだろうと、俺は確信した。おまえを驚かせようと思って、おまえに気付かれぬよう、こっそり そうしたんだ。おまえがハーデスに さらわれる前日のことだ」 「僕が この国に来る前日? じゃあ、運命の女神たちの前で 僕が誓った誓いは――」 「そういうことだ」 「そういうことって、どういうことだよ! 自分たちだけで わかり合ってないで、俺たちにも わかるように ちゃんと説明しろっ」 氷河と瞬が二人だけで話を進めていくので、二人以外の人間(と神)は すっかり 置いてけぼり。 まるで話が見えない二人のやりとりにクレームをつけていったのは星矢でした。 神の御前で、神を差し置いて、そんな差し出口をきいた星矢に ハーデスが文句を言わなかったのは、星矢と全く同じことを彼が求めていたからだったでしょう。 氷河は、星矢の求めに応じて(実際は、ハーデスに聞かせるために)、事情説明を開始したのです。 とても重々しく、慎重な口振りで。 もっとも、氷河が いつになく そんな慎重かつ深刻な声音になったのは、少しでも気を緩めると 笑いが噴出してきて まともな説明をできそうにない自分を知っているからのようでしたが。 「瞬が貴様に騙され誘拐される前日、俺は 以前から気に食わなかった瞬のペンダントに刻まれている文言を修正したんだ。瞬に気付かれぬよう、こっそり。『YOURS EVER』を『HYOUGA’S EVER』に」 「余……余のペンダントの文言を、しゅ……修正だとっ !? 」 「より正確に言うと、『YOURS』の前に『H』を一文字刻み、『R』を『×』で消して、その下に『GA』とアポストロフィを刻んだ。『GA』が少々 歪んだが、俺は本職ではないから 仕方あるまい。読めればいいんだ、こういうのは。大事なことは、刻まれている文言が真実を表わしているかどうかということだ」 「か……神の贈り物を勝手に書き換えたというのかっ !? 」 「金はやわらかくて、細工が容易だからな。これが鉄だったら、半日がかりの大仕事になっていたかもしれん」 これは、そういう問題ではありません。 得意の絶頂にあったハーデスは、得意の絶頂から転げ落ちるのも忘れて、ただ唖然呆然。 平和なエリシオンには、氷河の高笑いが響き渡ることになりました。 「わーっはっはっはっはっ! ざまあ見ろ、ハーデス! 俺の瞬を俺から奪おうとするから、こんなことになるんだ! 俺の愛の勝利だ! 瞬は永遠に俺のもの。それが 決して覆されることのない瞬の運命なんだ! 運命なんぞ、小刀1本で変えられる!」 今度 得意の絶頂に駆け登ったのは、白鳥座の聖闘士・キグナス氷河でした。 「氷河! 貴っ様ーっ!」 なぜか ハーデスより先に一輝の方が激怒して、氷河に飛びかかっていきます。 争いのない理想郷エリシオンで、ついに熾烈な戦いが勃発。 ここはもう平和な理想の国ではなくなってしまったようでした。 そして、この楽園を作ったハーデスはといえば。 神をも畏れぬ氷河の所業には 彼も激怒していたのですが、彼は 自らの怒りを どう表現したものか、咄嗟に思いつくことができずにいたのです。 あまりにアナクロな――もとい、原始的な――氷河の やりように呆れて。 氷河のやりように呆れていたのは、ハーデスだけではありません。 それは、氷河の仲間である星矢と紫龍も同様でした。 「氷河の笑い方、すっかり悪役なんだけど」 「これでは、正義の味方であるアテナの聖闘士のイメージが悪くなるな」 そんなことを心配している星矢と紫龍の横で、アテナは吹き出しそうになるのを こらえるのに必死。 そして 瞬は――瞬は、この騒ぎの当事者でありながら、もしかしたら その場にいる誰よりも事情が呑み込めていなかったかもしれません。 兄と氷河による 鳳翼天翔とオーロラエクスキューションの応酬を止めることも思いつかず、瞬は その場で ただただ ぽかんとしていることしかできずにいたのですから。 瞬よりもハーデスの方が先に、“ぽかん”状態から脱することができたようでした。 「な……何という卑劣。何という愚劣。おのれ、人間めーっ!」 冥界の最下層から立ちのぼるようなハーテスの憤怒の声。 できれば、その怒りは 人間全般ではなく氷河一人に向けてほしいという星矢と紫龍の願いは空しいものでした。 ハーデスは、 「こんな人間共、必ず 余が殲滅してくれるっ!」 と、既に理想の楽園でなくなったエリシオンで、実に高らかに決意表明をしてくれたのです。 そして。 これ以上 ここにいたら頭がおかしくなるとでも思ったのか、その決意表明を終えるなり、ハーデスは 彼の作った理想郷から忽然と その姿を消し去っていました。 痩せても枯れても腐っても神。 ハーデスの迅速な撤退は、極めて賢明かつ高レベルの判断によるものだったといえるでしょう。 「氷河も一輝も、喧嘩は あとにしろっ! どーすんだよ! 冥府の王を本気で怒らせちまったぞ!」 「うむ。これは 非常にまずい事態だ。これまで ハーデスは、少数の美形を誘拐して 人類に限定的な迷惑はかけていたが、本気で人間すべてを滅ぼそうと画策したことはなかったはずだ」 これが、地上世界を滅ぼそうとするハーデス 及び冥界軍と、地上世界を守ろうとするアテナ 及び聖域軍の何千年にも渡る聖戦の始まりだったということを、今はまだ知らないはずの紫龍が憂い顔を作ります。 紫龍の憂い顔は、未だ“ぽかん”状態にあった瞬にも、真面目で深刻な懸念を運んできました。 星矢と紫龍によって 一輝から引き離され、しぶしぶ喧嘩をやめることになった氷河だけは、シリアスモードの仲間たちとは異なり、やる気満々でしたが。 なにしろ彼は、神にも覆すことのできない運命によって、永遠に瞬に結びつけられたのです。 氷河が張り切っていないはずがありません。 大いに張り切って、素晴らしく元気よく、(そして、極めて無責任に)氷河は、 「ハーデスだろうが、アルキメデスだろうが、恐れることなどあるものか! 俺たちの戦いは これからだ!」 と放言してくれたのです。 「氷河っ! おまえ、なに、そんな 打ち切りアニメみたいなこと言ってんだよ!」 「星矢。今はまだ、そんなものは存在していない」 星矢と紫龍が何やら文句を言っていましたが、運命の恋を手に入れた氷河の耳に そんなものが聞こえるわけがありません。 事態の深刻さを華麗に無視して、氷河は彼の運命の恋人を しっかりとその胸に抱きしめました。 またしても怒りの小宇宙を燃やし始めた一輝を押さえるのに、紫龍は一苦労。 氷河の能天気が伝染ったのか、星矢はもう、氷河が招いた人類の危機を案じることを放棄してしまったようでした。 「まあ、なんか、氷河みたいなのがいる限り、神は人間に勝てないような気がするから、いいけどさあ」 少々 自棄の響きが感じられなくもありませんでしたが、お気楽な笑顔で 星矢が呟きます。 呟いてから、アテナがそこにいることを思い出し、星矢は慌てて自分の発言に但し文を追加しました。 「あ、アテナは別だぜ、もちろん。氷河だって、アテナに勝とうなんて、そんな大それたことは考えてないと思う」 「私だって、氷河に勝ちたいなんて、そんな大それたことは 死んでも思わないわ。ほんと、恥ずかしいったら。これが私の聖闘士なのかと思うと、情けなくて涙が止まらないわ」 嘆かわしげに そう言って 頭を左右に振るアテナの瞳には、本当に涙がにじんでいました。 「涙が出るほど笑うのは、さすがにハーデスが気の毒なのでは……」 「あら。ばれてたの」 悪びれた様子もなく、アテナが自身の嘘を認めます。 「ばれないわけがないでしょう」 アテナの見え透いた嘘に呆れている紫龍も、もう 先程の憂い顔は消し去ってしまっていました。 知恵と戦いの女神アテナが こんなに楽しそうにしているのに、自分だけ深刻振っていても 詰まらないですからね。 「人生は楽しく生きなくちゃね。氷河は人類の希望よ。争いの絶えない世界、その世界に生きる者たちに笑いをもたらしてくれる、実に稀有な人材だわ」 「氷河が人類の希望? なんか、お先 真っ暗って感じ」 そう ぼやいて肩をすくめる星矢の瞳は、言葉とは裏腹に 明るく輝いています。 運命の恋を手に入れた氷河は、幸せいっぱい、夢いっぱい。 仲間たちの許に帰りたいという望みの叶った今の瞬の胸にあるのは、あふれんばかりの喜びだけ。 そういう経緯で、アテナとアテナの聖闘士たちは、皆で 明るく楽しく和気藹々と(瞬の兄 除く)、彼等の世界に帰還したのです。 そのことがあってから、冥府の王ハーデスは本格的に人間嫌いになり、地上世界を滅亡させるべく アテナとアテナの聖闘士たちに挑んでくるようになったのですが、今のところ、連戦連敗。 地上世界に攻め入るたび、アテナと彼女の聖闘士たちに敗北を喫しています。 地上世界に生きる人々が希望(と笑い)を失ってしまわない限り、地上世界は いつまでも人間たちのものであり続けることでしょう。 Fin.
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