そうして、今年も氷河の日が巡ってきた。
もっとも、記念の日だからといって、その日に 城戸邸で盛大な祝いの席が設けられるわけではない。
氷河に贈り物が贈られるわけでもない。
そもそも その日が“氷河の日”だということを、当の氷河が知らないのだから、それも当然。
城戸邸では、その日も いつもと同じ時間が いつもと同じように流れていた。
瞬が 氷河に散歩(デート)に行きたいとねだられるのも、いつもと同じ。
ねだられた瞬が、氷河を連れて 紅葉が見頃の奥多摩に出掛けていったのも、特段 珍奇な出来事ではなかっただろう。
いつもと違っている点を、しいて挙げるなら、その日の二人の散歩は 随分と長い散歩になり、二人が帰ってきたのは夜の10時を過ぎてからだった――ということくらい。
瞬の上着が汚れ破れ、外出先で足を挫いたらしい瞬が 僅かに足を引きずって帰ってきた――ということくらいだった。

散歩に出た先で 瞬たちは敵襲に会ったのかと、星矢は冗談ではなく真面目に心配してしまったのである。
星矢は、アテナの聖闘士が そんな姿になる原因を 他に思いつけなかった。
瞬からは すぐに、そんなことはなかったという答えが返ってきたが。
「んじゃ、おまえは、普通に山歩きしてて 足を挫いたってのか? アテナの聖闘士が? それが ほんとだとしたら、おまえ、たるみすぎだぞ」
瞬が たるみすぎていると、もちろん 星矢は本気で思ったわけではない。
“たるんでいるから、そんなことになったのではない”という事情説明を聞くために、星矢は そんな言葉を口にしたのである。
どうせ氷河が また何か馬鹿なことをしでかしたのだろうと、瞬からの事情説明を聞く前に、星矢は勝手に決めつけていた。
が、瞬は、それを氷河のせいにはしなかった。

「それは、アケビが……」
「アケビ? アケビが おまえに襲いかかってきたってのかよ?」
「そうじゃなくて……氷河はアケビを食べたことがないんだって」
「はあ?」
唐突なアケビの登場は さておき、氷河がアケビを食したことがないと、なぜ瞬の服が破れることになるのか。
氷河がアケビを食したことがないとネズミが増え、桶だけでなく瞬の上着までが齧られることになるとでも、瞬は言うのだろうか。
訳が わからず、眉をしかめた星矢に、
「まあ、アケビというのは、主に東アジアで産するものだから、シベリアでは まず お目にかかることはなかったろうな」
と、およそ どうでもいい情報を、紫龍が提示してくる。
その およそどうでもいい情報に、瞬は大真面目に頷いた。

「うん。そうなんだって。それでね、鳩ノ巣渓谷を歩いてる時、谷に せり出した木にアケビの蔓が巻きついてて、アケビの実がなってるのを、僕、見付けたんだよ。アケビのシーズンはもう終わりかけるし、多分、今年最後のアケビだろうと思ったから、僕、それをとって氷河に食べさせてあげようと思ったんだ。それで、氷河を驚かせたかったから、氷河に気付かれないように、アケビを取るために 崖から身を乗り出して――」
「んで、崖から落ちたってのか?」
それで上着を破いたり、足を挫いたりしたのなら、やはり瞬は たるんでいるとしか言いようがない。
呆れた顔になった星矢に、瞬は言い訳という名の説明を追加してきた。

「も……もちろん、ちゃんと着地したよ。落ちる時に掴んだアケビを手放したくなかったから、着地の時に ちょっと態勢を崩して足を痛めただけ。せいぜい4、50メートルくらいの高さから落ちたくらいで、僕が怪我なんかするわけないでしょう」
「ちゃんと 着地できなかったから、上着が ずたぼろに破けることになったんだろ。おまえ、まじで たるんでるのかよ」
「そうじゃないよ。ちゃんと着地はしたの。それは ほんと。ただ、高さ50メートルの崖って、普通の人は 落ちたら死んじゃう高さでしょう。僕が崖上から落ちたところを見ていた人がいて、人が落ちたって大騒ぎになっちゃったんだ。それで、駐在さんとか山岳救助隊の人たちが集まってきて……。わざと上着を汚して、うっかり上着を落としちゃったことにして ごまかそうとしたんだけど、僕が落ちるのを目撃した人が絶対に人だったって言い張って、念のために 捜索することになって、僕たち、帰るに帰れなくなって――」

どうやら瞬は、上着を うっかり落としたことにするために、わざと上着を破り汚すことをした――らしい。
真相を知らされた星矢は、瞬が たるんでいないことに安堵するより、瞬の失態に呆れてしまったのである。
失態というより、失態の原因が本当にアケビだったことに。
「アケビのために命がけかよ。おまえ、昔っから、くだらないことに命かけすぎなんだよ」
「くだらないことって……こんなドジを踏んだのは、僕、これが初めてだよ」
「俺が言ってる“くだらないこと”ってのは、氷河のこと!」
瞬の認識を、大声で星矢が正す。
幸い(?)氷河は 瞬のための湿布を取りに行っていて その場に いなかったのだが、もし氷河が その場にいたとしても、星矢は同じように大きな声で 瞬の誤認を正していただろう。
むしろ 氷河が この場にいた方が、より大きな声をあげていたかもしれない。

「だいたい氷河は、状況を俯瞰する能力がなくて、視野狭窄。周囲の人間が止めても、一人で勝手に走り出して、そのくせ 一人じゃ止まれない。そのたびに 俺たちが巻き添え食って、ほんと、いい迷惑なんだよ!」
「おまえが それを言うか」
紫龍が、こちらは通常ボリュームで 横から口を挟んできたのだが、星矢は もちろん、紫龍の茶々を きっちり無視した。
「いちばんの被害者は、瞬、おまえだろ。双児宮に天秤宮。考えてみりゃ、エリスの時も、ドルバルの時も、氷河の奴が クールぶった甘ちゃんの間抜けだったせいで、俺たちは余計な面倒事を背負い込むことになったんだ。ポセイドン戦のアイザックの時なんか、貴鬼まで とばっちりを食ってる」
「それは……け……けど、僕は、氷河に迷惑をかけられたことなんかないよ。迷惑なら、僕の方がかけてる。殺生谷でも、それから ハーデスの時も――」
「それはおまえのせいじゃないだろ。一輝が勝手に ぐれて、ハーデスが勝手に おまえを 自分の魂の器に決めちまっただけで」
「だ……だとしても、それは 僕がもう少し強かったら回避できたことだったかもしれないでしょう。カロンのところでは、僕が無闇に人を信じすぎたせいで、星矢を危ない目に会わせちゃったし……」

人間には、自分の過ちや罪より 他人の過ちや罪の方を いつまでも憶えているタイプの人間と、他人の過ちや罪より 自分の過ちや罪こそを いつまでも忘れないタイプの人間がいる。
瞬は後者に属する人間で、星矢は前者――ただし、被害者が自分だった場合のことは忘れるタイプの前者――に属する人間だった。
「でも、だから 俺たちは あの川を渡れたんじゃないか。オルフェの花箱の中では、おまえは 俺を庇ってくれた」
否、星矢は 他人の過ちや罪を いつまでも忘れないタイプの人間なのではなく、人から受けた恩義を忘れないタイプの人間なのだ。
瞬が、そんな星矢に微笑する。

「あれは、聖闘士以前に 人として当然のことだよ。でも、そう。僕たちは、そんなふうに、いつも互いに互いを助け合って 庇い合ってきたでしょう。特に氷河がどうこうということはないと思うよ」
「そりゃ そうかもしれないけどさあ……」
瞬に やわらかな微笑を向けられた星矢が、反駁の言葉に詰まる。
瞬の言葉に(一応)攻撃の矛を収めはしたが、それでも星矢は 相変わらず不満顔だった。






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