その日は日曜だった。
もちろん 晴れている。
氷河の店は休み。
開店の準備をせずに済む日は、氷河は 午後の時間のほとんど すべてをナターシャのために使うことにしていた。
しかし、その日は、某県在住の個人コレクターの家に 極めて稀少なブレンデッド・ウィスキーが眠っているという情報が入り、氷河は どうしてもナターシャのための時間を割くことができなくなったのである。
氷河から連絡をもらった瞬は、すぐに氷河の家に飛んできた。

「いつも 悪いな」
「今 手に入れておかないと、オークションに出されてしまうかもしれないんでしょう? まさか、お酒の仕入れの交渉にナターシャちゃんを連れていくわけにもいかないし……。ナターシャちゃんは可愛くて、一緒にいると僕も楽しいから、預かれるのは嬉しいよ。ナターシャちゃんと一緒だと、堂々とスイーツを食べるお店にも入れるし、僕の知らない氷河の話も聞けるし」
「妙なことを話してるんじゃないだろうな」
「今のところは」
「今のところは?」

氷河が不安そうに眉をひそめる。
ナターシャが来てから、掃除が行き届くようになった氷河の家のリビング。
本やグラスを片付けず出しっ放しにしておく氷河の悪癖は、こういうことで治るものだったのだと、瞬は感心していた。
ナターシャから“叱ってくれない”以外の不満が出てこないのも当然のこと。
氷河は よき父、よき家庭人としての務めを 見事に果たしているのだ。――今のところは。

「ナターシャちゃんは、パパが大好きみたい。そのうち、パパのお嫁さんになるとか言い出すんじゃないの」
「まさか。だいいち、俺は――」
氷河の視線が、まっすぐに瞬に向けられてくる。
どうせ すぐに出掛けるのだからと言って飲み物を断ったせいで、グラスやカップに逃げることができない。
飲み物を遠慮したのは失敗だったかもしれないと、全身に氷河の視線を感じながら、瞬は少し後悔していた。
その視線から逃げる先を求めて、瞬は、二人の間に“楽しいジョーク”を持ち出したのである。

「でも、『パパのお嫁さんになる』って、父親が娘に言われたい、憧れのセリフでしょう? そのうち、絶対 言い出すと思うよ。氷河みたいに綺麗で優しいパパは滅多にいないもの」
「おまえも そう思ってくれているか」
「こんなに娘を甘やかすパパは他にいないだろうと思ってるよ」
「お望みとあらば、俺は おまえも いくらでも甘やかしてやるぞ」
氷河が 腕をのばして、瞬の髪に触れてくる。
「どうだか」

その手から逃げると、氷河は機嫌を悪くするだろう。
ナターシャに早く ご登場いただかないと まずいことになる。
そう考えて、瞬は その視線をリビングのドアへと視線を走らせた。
そうして――ドアの陰に既にナターシャが立っていることに気付き、瞬は慌てて身を引いたのである。
氷河の手から逃れても、それがナターシャのためなのであれば――ナターシャの前では――まさか氷河も あからさまに不機嫌な顔は作れないはずだった。

「あ……ナターシャちゃん、準備はできた? パパは急な お仕事で 時間をとれなくなったから、今日は僕と お出掛けしようね」
内心の焦りを隠して、ナターシャに微笑を向ける。
そんな時には いつも つられるように笑顔になるナターシャが、今日は瞬きを繰り返すばかりで、しかも、パパとパパのお友だちの側に駆け寄ってこない。
気付かれてはならないことを 気付かせてしまったかと、瞬の胸中の焦慮は 更に増すことになったのである。

が、実は、ナターシャが ドアの陰に立ち、リビングに入れずにいたのは、“本気で怒らせると恐い瞬”に怯えていたせいで、氷河と瞬が かもしだしている親密な空気のせいではなかった。
瞬に いつも通りの微笑を向けられ、ナターシャをドアの陰に引きとめていた恐れが、ナターシャの中から消えていく。
さほどの時間を要することなく、ナターシャの心は、いつもの それに戻っていた。

会う前は 恐かったのに、実際に会うと恐くなくなる。
瞬の周囲には 常に優しく温かい空気があり、それは 瞬の側にいる者たちをも包み込む。
瞬の微笑は優しい。
一緒にいると 幸せな気持ちになる。
恐がれと言われても、瞬の作り出す優しく温かい空気が、それを許してくれないのだ。
「リボン、自分で結んだの? 上手になったね」
パパと違って 細かいところに気が付き、ナターシャが褒めてほしいところを必ず褒めてくれる、パパのキレイなお友だち。
瞬を恐がることは、ナターシャには やはりできなかった。






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