「ナ……ナターシャ……」 唇を離し、瞬を抱きしめていた腕から力を抜き――だが、完全に瞬と離れてしまわないのは、それでは まるで悪事を余人に見咎められた悪者の反応そのものだと思うから。 つかず離れずの微妙な距離を保ちながら、いわく言い難い表情で、突然 この場に飛び込んできた闖入者を 見おろしている氷河と瞬を、ナターシャは不思議そうな目をして見上げている。 パパと“お姉さんではない”パパのお友だちの振舞いを、いったいナターシャは どう思ったのか。 就学前の幼い少女の気持ちを推し量ることができず、氷河と瞬は 夜風の服船の甲板の上で 心身を強張らせることしかできずにいた。 無言の三すくみ状態。 紫龍が そこにやってこなかったら、クルーザーが港に着くまで、三人は三すくみ状態から抜け出せずにいたかもしれなかった。 「すまん。ナターシャが パパのところに行くと言ってきかなくて」 デッキに漂っている 気まずい空気で 何があったのかを察したらしい紫龍が、瞬に――氷河にではない――謝ってくる。 こんなに小さな敵の襲撃も防ぐことのできない天秤座の黄金聖闘士を、氷河は 忌々しげに睨みつけた。 「あ……あの、何でもないの。え……え……と、ナターシャちゃんは、やっぱり、パパのお嫁さんになりたかったのかな?」 氷河の腕を すり抜け、ナターシャの側に歩み寄り、瞬は彼女の前で上体を前方に傾け、彼女に尋ねた。 尋ねてしまってから、とんでもないところを見られて慌てたにしても、言うに事欠いて 何ということを尋ねてしまったのかと、瞬は胸中で 自身の失策に泣きそうになっていた。 ナターシャから、全く取り乱した響きのない声で、 「パパのお嫁さんにはなれないって、保育園のマコちゃんが言ってた」 という答えが返ってくる。 「え……」 その落ち着き振りに、瞬は 一層 慌て、どぎまぎしてしまったのである。 その瞬の背後で、 「それはそうだが……」 という、呻き声のような氷河の呟き。 『パパのお嫁さんになる』は、氷河には やはり憧れのセリフだったらしい。 同性のキレイな友人とのラブシーンを娘に見られたことより、娘に 憧れのセリフを言ってもらえそうにないことの方が、氷河には より衝撃的な出来事だったらしい。 氷河の声は、狼狽の色より落胆の色の方が濃いものだった。 ナターシャが、パパとパパの友人のラブシーンに さほど――全く?――ショックを受けていないらしいことに 安堵していいのか どうか わからないまま、瞬は とりあえず安堵の胸を撫で下ろしたのである。 「ナターシャがファザコンになっていないのは、実に結構なことだ」 「でも、氷河は がっかりしてるみたい……」 ナターシャは冷静。 その父親は 意気消沈。 自分は、まだ小学校にもあがっていない幼い少女より、いい歳をした大人の方を案じ 慰めてやらなければならないのかと、潮の匂いのする浦風の中で、瞬は軽い目眩いを覚えることになった。 が、幸い、瞬は そんな情けないことをせずに済んだのである。 某水瓶座の黄金聖闘士は、娘に憧れのセリフを言ってもらえないことのショックから すぐに立ち直ってみせたのだ。 そして、彼は、娘に 憧れのセリフを言ってもらう代わりに、娘を持つ父親の常套句を堂々と言い放つという暴挙に出てくれた。 「ナターシャは、俺よりいい男で、俺より強くて、俺より優しくて、地位も名誉も財産もある男にしか嫁にやらんぞっ!」 確かに瞬は、まだ小学校にもあがっていない幼い少女より、いい歳をした大人の方を案じ 慰めるという、情けないことはせずに済んだ。 とはいえ、だから 瞬の目眩いが治まったかというと、決して そんなことはなく――氷河の時代錯誤な放言のせいで、瞬は 目眩いに加えて頭痛までをも その身に抱え込むことになってしまった。 「氷河、そんな人、この世にいないと思ってるんでしょう? 氷河が そんなこと言ってると、ナターシャちゃんは、ほんとに重度のファザコンになっちゃって、恋もできないかもしれないよ」 「ナターシャも大変だな。こんな親馬鹿を父親に持つと」 瞬同様、氷河の無茶親振りに呆れて、疲れたように 紫龍がぼやく。 その ぼやきを否定してきたのは、親馬鹿な馬鹿親当人ではなく、彼の幼い娘の方だった。 「ナターシャ、ちっとも 大変じゃないよ」 大人が三人、やいのやいのと ごたついている中、ひとりナターシャだけが、なぜ そんな騒ぎが起こるのかがわからないといった様子で 落ち着き払っている。 その大人な態度と発言に、紫龍は感心した。 「ちっとも大変じゃない? それは随分と寛大で忍耐強い。だが、いつかはナターシャにも 馬鹿なパパより好きな人ができるだろう。その時、氷河は、ナターシャの好きになった人に あれこれ難癖をつけ、駄々をこねて大騒ぎを引き起こすに決まっている。その時には必ず、俺か瞬に相談するんだぞ。俺と瞬は いつでもナターシャの味方だからな」 「紫龍! 余計なことを言うなっ!」 氷河の言う“余計なこと”は、氷河にとって都合の悪いことである。 紫龍はナターシャのために 一歩も退くつもりはなかったが、ナターシャにとっても 紫龍のそれは余計なことだったらしい。 「ナターシャ、大変じゃないよ」 ナターシャは、再度 その言葉を繰り返した。 「もしかして、ナターシャちゃん、ずっとパパのところにいるつもりだとか?」 幼い少女に似つかわしくない冷静沈着に不安を覚えて 瞬が尋ねると、ナターシャは 今度は 幼い少女らしい仕草で、首を横に振った。 そうしてから、彼女は いかにも幼い少女らしい口調で、自らの落ち着き振りの訳を 大人たちに語ってくれたのである。 「ナターシャ、瞬ちゃん先生のお嫁さんになることにしたの。瞬ちゃん先生は綺麗で、強くて、優しくて、美味しいケーキ屋さんを いっぱい知ってるから」 「なに……?」 ナターシャの、実に あどけなない爆弾宣言。 それは、どこぞの水瓶座の黄金聖闘士のオーロラクスキューションより強大な力で氷河にダメージを与え、どこぞの水瓶座の黄金聖闘士のフリージングコフィンより強烈な凍気で、氷河を凍りつかせた。 ナターシャの攻撃を直接 受けることのない場所にいた紫龍の心身までが、一瞬 氷のように固まり、動けなくなる。 ナターシャの爆弾宣言に ぎょっとして、だが 紫龍はすぐに 彼女の素晴らしい解決策に感動し、大いに感嘆することになった。 「ああ、それはいい。それはいいな。瞬なら、氷河より綺麗で、氷河より強くて、氷河より優しくて、地位も名誉も財産もある。氷河も反対はできまい」 「……」 紫龍に そこまで言われても、氷河は 相変わらず 凍りついたまま。 「ナターシャ、ちゃんと 女の子だし」 全く悪意のないナターシャの言葉は、更に一層 固く冷たく、氷河の心身を強張らせ、凍りつかせることになった。 瞬に解凍してもらわなければ、氷河の復活は到底無理そうだったが、肝心の瞬までが 今はまだ硬直状態で、氷河の蘇生作業に取りかかれそうにない。 氷河にとっては、まさに獅子身中の虫。 実に強力なライバルが登場したものである。 何とか呼吸する方法だけは思い出したらしい氷河が ぱくぱくと口だけを動かしている様が、紫龍は愉快でならなかった。 「紫龍おじちゃん。それで、結局、瞬ちゃん先生を本気で怒らせると どうなるの?」 お嫁さんになる相手が決まれば、次にすべきは その人の身上調査である。 自分の為すべきことを 着々と遂行していくナターシャに、氷河にはない計画的建設的資質を見い出して、紫龍は胸中で感服していた。 「泣くんだよ。ぽろぽろ涙を流して。恐いだろう」 「ナターシャ、瞬ちゃん先生を泣かせるようなことはしないよ」 「なら、安心だ。氷河は瞬を泣かせてばかりで どうしようもなかったが、ナターシャは氷河より ずっと大人で頼もしい」 紫龍おじちゃんに褒められたナターシャが、無邪気に嬉しそうな笑顔を浮かべる。 娘の幸福は 父親の幸福でもあるはず――娘の幸福こそが、父親の幸福であるはず。 これからの氷河の恋路は はたしてどのようなものになるのか。 瞬とナターシャの手前、ここで爆笑するわけにもいかず、必死に笑いをこらえている紫龍の代わりに、夜の港の灯りが 楽しそうに笑ってくれていた。 Fin.
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