つい数十分前には 確かに 小さな白い猫以外 誰もいなかったベッドルーム。 そのベッドの上。 ベッドルームに向かって駆けてくる兄や氷河たちの足音を察知して、瞬は 急いで その身体をベッドカバーで覆い隠したらしい。 瞬は どう見ても裸―― 一糸まとわぬ全裸――だった。 「氷河ーっ !! 」 世界一 可愛くて出来のいい弟に再会できた喜びより、誘拐犯への怒りの感情の方が大きかったらしい。 一輝は、一緒にベッドルームに駆けつけた氷河に 問答無用で殴りかかっていこうとした。 その兄を、瞬の泣き声じみた悲鳴が押しとどめる。 「違うのっ! 兄さん、やめて! 氷河のせいじゃない、僕が勝手に押しかけてきたのっ!」 氷河の顔面にあと5ミリのところで、一輝の拳は止まった。 が、怒りと混乱が激しすぎて、一輝は その拳を下ろすことができずにいるらしい。 氷河の顔前で 強張り動かなくなっている一輝の拳を 下ろしてやったのは星矢だった。 紫龍が、氷河のベッドの上で 自分を簀巻き状態にしている瞬に尋ねていく。 「さっきまで、ここには白い猫が一匹いるだけだった。一輝が家探しをしている間、おまえはどこにいたんだ」 白い猫の姿が消え、その猫がいたところに 瞬がいる。 他に答えはないだろうが、現実問題として そんな答えはあり得ない――という答えが、瞬から返ってきた。 すなわち、 「あの猫が僕だったの」 という答えが。 「なぜ そんなことが起きたんだ」 と、決して訊きたくはないのだが、訊かないわけにはいかない。 紫龍が その質問を口にすると、瞬はまず、 「ごめんなさい」 と謝ってから、この2日間に我が身に起きたことを 仲間たちに語ってくれたのだった。 「僕……今の僕で駄目なら、百万回 生きた猫みたいに 何度でも生まれ変わって、兄さんの自慢の弟になりたいって 神様にお願いしたんだ。そしたら、自慢できるような弟じゃなく、猫になっちゃって……。僕……僕、運命が 僕に『自慢の弟になるのは諦めて、猫として生きろ』と言っているように思えてきて――。情けなくて、悲しくて、もう兄さんのところにはいられないって思った。でも、兄さんのところ以外、僕には行くとこがなくて……。それで、氷河は いつ来てもいいって言ってくれてたし、氷河なら 猫の僕でも 一緒にいてくれるかもしれないって思って、それで……」 明瞭ではなく、元気もなく、力強くもなく、むしろ 怖気て 気弱げ、自信もなさそうで、遠慮がちな瞬の声。 しかし、瞬は、人間が猫に変身するという非科学的な現象が 我が身に起きたことを奇異に思っている様子はなかった。 「期待通り、氷河は おまえを部屋の中に入れてくれたわけだ。そして、一輝のさっきの雄叫びで、おまえのコンプレックスは解消され、元の姿に戻った――と。一輝が 喚いたのが氷河の家の中でよかったな。街中で 瞬が元の姿に戻っていたら 大変なことになっていた」 「そこ、引っ掛かるとこか?」 冷静な解説を繰り広げる紫龍に、星矢が 呆れた顔になる。 この場合、引っ掛かるべきところは そこではない。 そこではなく、 「なんで、そんなメルヘンチックなことが起きるんだよ! ここは おとぎの国でも ファンタジーの世界でもないんだぞ!」 という点だろう。 紫龍解説委員からは、 「それは まあ……瞬だからな」 という、実に非科学的な答えが返ってきた。 それで納得できてしまうところが、瞬というキャラクターの特異性である。 「ま、よかったじゃん。瞬は元に戻ったし、一輝も 向こう10年分くらいは瞬を褒めてやったから、瞬も もう落ち込むことはなくなるだろうし、氷河は――」 ともかく一輝の怒りを静め、この場を大団円に持っていくべく努め始めていた星矢の声が、そこで途切れる。 氷河は――この騒ぎで、氷河は何らかの益を得ただろうか。 拾った猫は 本来の家に戻っていくだろうし、瞬の裸は見損ねた。 それが、この騒動で 氷河が得たものの すべてなのだ。 あとは せいぜい、近日中に 近所に迷惑をかけたことへの お叱りを、しかるべき立場の人間から 受けることになるだろうという、有難くない確信だけである。 「一輝との間にトラブルが起きた時、瞬が頼る相手が氷河だった――というのは、氷河の日頃の努力の たまものなのではないか」 と、紫龍がフォローを入れ、氷河も そんな紫龍に、 「そうだな」 と応じたが、その声には 覇気や喜びの響きは 全く含まれていなかった。 『瞬のプライオリティ・ナンバー1は一輝』という法則は、この騒動の前後で 何も変わっていないのだ。 しかも、瞬は兄の元に帰っていく。 氷河の声に覇気がないのは、至極 当然のことだったろう。 星矢と紫龍は、少なからず 氷河に同情した。 氷河が どれほど瞬を好きで、幾度 『俺のところに来い』と言っても、瞬の“いちばん”は やはり、どうあっても、あくまでも、瞬の兄なのだ。 ――が。 瞬は、自分の心の弱さが 氷河に迷惑をかけてしまったと、そのことは心苦しく思っていただろう。 氷河が『俺のところに来い』と繰り返すのも、せいぜい、『一人でいるのが寂しいのだろう』くらいにしか思っていなかったに違いない。 家出した(ことになっていた)友人が 無事に発見されたというのに、氷河が あまり嬉しそうにしていないことも、せっかく拾った猫がいなくなるからなのだと、瞬は解していた。おそらく。 それは、まず 間違いない。 しかし。 瞬の服を取ってくると言って 一輝が その場からいなくなった時を見計らったように、 「氷河……あの……僕、また氷河のとこに来てもいい? 人間のままで、一人で……」 と、瞬が氷河に尋ねていったのは。 「迷惑をかけて、ごめんなさい。でも、氷河に優しくしてもらえて、僕、すごく嬉しかった」 と氷河に告げる瞬の頬が 微かに上気していたのは。 氷河の恋は 決して絶望的なものではないのかもしれない。 むしろ、氷河の恋の前途は洋々たるものなのかもしれない。 「毎日の褒め言葉と、地道な努力って、やっぱ大事なんだなー」 瞬からの 思いがけないアプローチに どう反応すればいいのかわからず、戸惑い、 「あ……ああ」 という 芸のない返事を口にするので精一杯状態の氷河の横顔。 そんな氷河と、そんな氷河の前で もじもじしている簀巻き状態の瞬を見やり、星矢は しみじみ 呟くことになったのだった。 Fin.
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