「なるほど、北の国の王は馬鹿だ。王当人に愚かな野心がないなら 放っておいても害はないだろうと考えて放っておいたが、それは浅慮だったな。貴様の馬鹿振りは、瞬を困らせる。万一、瞬に貴様の馬鹿が伝染ったら、一大事だ」
夜の庭に突然 姿を現わしたのは、南の大国の王――瞬の兄だった。
その瞳には憤怒の炎、声と言葉には軽蔑の響き、態度には傲慢の空気を帯びている。
彼の背後に二人、気配を殺した男たちが控えているのを認めた氷河は、一輝が最愛の弟に警備をつけていて、その ご注進を受けて 彼がこの場にやってきたのかと思ったのだが、この男なら 弟の危機が匂いで わかるのかもしれないと、そんな馬鹿なことも考えた。
でなければ、溺愛している弟が 野心を持たない異国の王と二人だけで会うことは見逃していた王が、野心だけでできている男が闖入してきた今夜に限って 姿を現わすことに説明がつかない。

瞬の兄の鼻の特殊能力はさておき。
一輝が北の大国の王を“馬鹿”と断じたのは、氷河が南の大国の王の鼻の能力について あれこれ考えるような男だからではなく、氷河が 最強の力を持つ者の存在について語った発言が馬鹿げていたから――のようだった。
そんなに馬鹿なことを言ったつもりのなかった氷河は、一輝の断言を不快に思いつつ、自らの発言の内容を反芻してみたのである。
その結果、氷河は、自分が馬鹿だという事実を認めないわけにはいかなくなってしまったのだった。

地上で最も強い力を持つ王(王子)。
それは やはり瞬なのだ。
瞬が生まれた時、瞬の両親は、我が子に神々の祝福はいらないと言った。
つまり、瞬は 神々の祝福に縛られていない自由な王子――瞬は 真に自由な王子なのだ。
瞬は、地上で最も強い王子にも 最も優しい王子にもなることができる。
それどころか、神々の祝福という約束事に縛られていない瞬は、神々が禁じた“地上のすべてを支配する王”になることもできるのだ。
瞬が その望みを望むことがあるとは思えなかったが、瞬には その可能性を実現する“自由”がある――。
そして、瞬に与えられた自由は、神々の自由を阻害した。
瞬よりあとに生まれた王子の許に、神々は姿を現わさなかった――否、神々は姿を現わすことができなかったのだ。

「瞬は真に自由な人間だ。もし 神々が瞬以外の誰かに 確実に実現する何らかの祝福を与えてしまったら、その王子は、あらゆる可能性を持つ瞬の自由を否定することになる。そこに 矛盾が生じる。瞬が自由な――あらゆる可能性を持つ王子として この地上に存在するようになってから、神々は 必ず実現する神々の祝福を、誰にも与えられなくなったんだ。どの国も、生まれた王子の許に 神々が来なかったことは隠しているがな」
氷河の推察を、一輝が裏打ちしてくれた。
「――そういうことか」
「理解が遅いな」
いちいち癇に障る言い方をする男である。
氷河が こめかみを引きつらせたのに気付いた瞬が、すかさず“敵”同士の二人の間に入ってきた。

「氷河。氷河が僕を倒すことができなかったのは、僕が氷河の敵ではないものとして 氷河の前に立ったからではなかったと思います。兄の命を守るためになら、氷河の敵にまわってもいいという考えが 僕の中に全くなかったと言い切る自信は、僕にはありません」
「では、なぜ」
こんな不愉快な男が瞬の兄だということは、実際に そうなのだから仕方がないと諦めもつくが、こんな不愉快な男を 瞬がそれほど慕っていることには、全く得心できない。
苛立ちながら問うた氷河の前で、瞬は ふいに つらそうに眉根を寄せた。
その瞳に、罪悪感めいた何かが浮かぶ。
「それは――氷河が僕を敵と思うことができなかったからだと思います」

瞬の その様を見て、その答えを聞いて、氷河は 今になって、瞬がアイザックから奪った剣を 彼に返した訳を知ったのである。
瞬は“敵”として 氷河の前に立ったのに、氷河は瞬に対して剣を抜くことができなかった――氷河は 瞬を“敵”だと思うことができなかった――氷河にとって 瞬は“敵”ではなかった。
そのことに気付いて、瞬は――瞬自身も 氷河を“敵”だと思うことができなくなったのだ。
そして 瞬は、氷河を信じ切ることができなかった自分を悔いたのだろう。
だから 瞬は、手にした剣を 元の持ち主に返したのだ。

神の力に縛られるということは、そういうことだった。
氷河自身が“敵”と思えない敵は、“行く手に立ち塞がる どんな敵をも打ち倒すことのできる力”を持つ王にも倒すことはできない。
今回に限れば、それは氷河に幸いし、氷河は瞬を倒さずに済んだのだが、その“不自由”が いつも良い方に転ぶとは限らない。

「おまえを敵と思うことなど、俺にはできない。おまえの兄の命を奪って おまえに憎まれることも、俺にはできない」
「……そうだと思っていました」
瞬の前では、氷河は無力なのだ。
アイザックはもう何も言えなくなっていた。
神々に“不自由”という祝福を与えられていない自分を、アイザックが いつか幸福なことだと思うようになることを願いつつ、氷河は彼に告げた。

「南の大国の国王陛下は、幾度 打ち負かしても甦る力を持っているそうだ。軽率に南北の大国が戦いを始めると、両国は いつまでも不毛な戦いを続けることになるだろう。そうなれば、両国の国力は衰えるばかり。地上に覇を唱えるどころか、第三国を利することになりかねない」
アイザックを説得するのに、多くの言葉を費やす必要はなかった。
アイザックは、氷河より よほど理解が早かった。
二つの大国は、世界は、共存共栄を図るしかないのだ。
それが最も賢明な対応。
でなければ、共に倒れる未来があるだけなのである。

アイザックの沈黙を確認して、氷河は瞬に向き直った。
そして、
「おまえは自由なんだな」
と尋ねる。
「ええ。僕は何だって できます。氷河を許すことも、氷河を信じることも、僕を打ち倒すことのできない人を好きでいることも」
瞬は 静かに微笑んで そう答えてくれた。

確実なものを何も与えられていない代わりに あらゆる可能性を持つ、自由な瞬。
瞬が“自由”という祝福を与えられた人間でいてくれて 本当によかったと、氷河は心の底から思ったのである。
『愛している』と告げた男の胸に、瞬が寄り添ってくれるのも、瞬が自由だからなのだ。
外野にいる瞬の兄が 何やら 大声で わめいていたが、その声が聞こえていない振りをすることも、自由な瞬はしてくれる。

いずれ この地上には、神々の祝福という不自由を負った人間は存在しなくなるだろう。
人間は、神々の力から解放され、自由になる。
おそらく、人間にとっては幸いなことに。
瞬を その胸に抱きしめながら、“自由”は“希望”の同義語なのかもしれないと、氷河は思った。






Fin.






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