氷河は、成人したのを期に 国外に居を移すことにした。
転居先に日本を選んだのは、もちろん、そこが 彼の顔も知らない父の祖国だったから。
だが、それは二次的理由にすぎなかった。
氷河は、国語が違い、文化が違い、かつ ペテルスブルクから“遠い”ところに行きたかったのだ。
これ以上 人間というものを不快に思うようになりたくなかったから。
以前は、氷河の目には、人間は他の動物と同じものに映っていた。
今は、あらゆる動物の中で、人間が最も醜い動物だと思う。
この状態はまずいと、氷河は思ったのである。

文化的に似通っていて地続きになっている欧州ではなく、アジアの東の果てにある島国。
物質より精神に重きを置く文化。
ロシアや欧州とは異なり、血筋や家柄による身分制がなく、米国とは異なり、貧富による身分制もなく、社交界もない国。
何より、母が渡ろうとしていた国。
そして、父の祖国。
氷河は、日本という国は、自分にとって特別な国なのだろうと考えて――期待して――日本に渡ったのである。
実際には――“日本は特別”という氷河の考えは 幻想にすぎず、極東の島国で氷河を迎えたものは、ペテルスブルクと大差のない事物と人間たちだったが。

日本には、確かに、血筋や家柄による身分制はなかった――少なくとも、法律上ではなかった。
当然、上流階級というものも存在せず、社交界と名のつくものも(一応)存在しなかった。
しかし、その代わりに 経済的に優位に立っている者たちのネットワークがあり、それは日本国内に留まらず、世界規模のものだったのだ。
日本に渡っても、毎日 わけのわからない招待状が舞い込んでくるのは ペテルスブルクと同じ、勉強のために(?)招待に応じてみると、そこで待っているのは 投資もしくは寄付、妻帯の話。

日本女性は奥ゆかしく控えめで、三歩下がって夫の影を踏まないと聞いていたのに、その情報は古すぎたらしい。
少なくとも、結婚適齢期の娘を持つ母親は そうではなく、婉曲的に過ぎて わざとらしい彼女等の振舞いは 氷河を辟易させてくれた。
身分制のない日本では、資産や家柄より学歴がものを言うと聞いて、自分には 人に誇れるほどの学歴はないと言ったのだが、外国人には特例が適用されるらしい。
堂々と、『金と美貌は万国共通語』と、(おそらく) 世辞のつもりで 氷河に断言する婦人もいた。

『人を信じてはいけない、人を見たら詐欺師と思え』
長々と そういう話をしたあとで、だが 自分が持ってきた儲け話だけは大丈夫と力説する人間の神経が、氷河には理解できなかった。
それでも、日本とは違う文化圏からやってきた外国人ということもあるのか、その手の輩の振舞いは ペテルスブルクで出会った者たちほど露骨ではなかったが、いずれにしても 二つの都市での それらの経験は、氷河を随分と賢くしてくれた。
悪い方に賢くなりすぎたかもしれないと、自分で苦々しく思うほどに。


さほどの時間を置かずに、『情報網が発達した現代では、どの国にいっても 人間というものは大差がない』と悟った氷河は、そうして 楽園を探すことを諦め、地上世界で生きていく覚悟を決めたのである。
となれば、地上世界での暮らしを可能な限り 快適にする努力をしなければならない。
野生児には わからない種々の事務をさばいてくれる人材を、氷河が求めることになったのは、当然の成り行きだったろう。
少なくとも、毎日 舞い込む招待状の内容を吟味して、出席する意義があるかどうかを判断できる能力を有し、仕方なく購入した屋敷の維持管理を任せられるプライベート・セクレタリーが、氷河には必要だったのだ。

その頃になると、氷河も、自分が なるべく不快な思いをせずに済むようにするためには、自分と同レベルもしくは それ以上の資産を持つ超富裕層と付き合うしかないことが わかるようになっていた。
そんな氷河に、氷河の求める人材を斡旋してくれたのは、グラード財団総帥。
城戸沙織という名の、“尋常の人間”とは異質な雰囲気を持つ若い女性だった。

金で人を計るようなことはしたくないが、その資産は 氷河のそれより 桁が一つ多い。
氷河の資産が小国の国家予算なら、城戸沙織のそれは 欧州の中堅国のそれ。
「私個人の資産は大したことがないのだけれど」
と、城戸沙織は言っていたが、彼女の個人資産が氷河のそれより大きいのは確実。
しかも、彼女は それが永続的に増えていくシステムを手にしている。
そういう人間なら、数百億円の はした金のために 下らぬ小細工を弄することもないだろうと信頼しての委任。
彼女が なぜ ロシアからやってきた野生児に興味を持ったのかは 氷河には わからなかったが、初めて出会った時から、城戸沙織は 氷河に友好的で親切だった。






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