「僕が氷河を誘惑しようとしていたのは 事実なので……」
まず、瞬は そう言った。
「なに?」
我知らず眉をひそめた氷河の様子を認め、小さく頷くと、瞬は、誘惑者のそれにしては 生真面目にすぎる笑みを口許に浮かべた。
「誘惑というより、勧誘なんですけど……。氷河、空気を凍らせることができますよね? 比喩的な意味ではなくて、実際に。空気だけじゃなく、動物でも 植物でも 何でも。カミュが同じ力をもっていたのは ご存じ?」
瞬がなぜそのことを知っているのか――と、氷河は疑ったのである。
隠していたつもりはないが、必要がないので、氷河は、日本に来てから その力を使ったことは一度もなかったのだ。

「ご存じも何も、俺はカミュの指導を受けて、あれができるようになったんだ」
「ええ。そう聞いています。氷河は 素晴らしい才能の持ち主で、常人が10年 かかっても体得できるかどうか わからない技を、あっという間に駆使できるようになったと」
「……」
瞬は 誰から それを“聞いた”のか。
『まさか』と思い、『もしや』と考え、氷河は 事実を瞬に問おうとした。
瞬は そのための時間を 氷河に与えてくれなかったが。
「で、そのカミュも所属している正義の味方の団体があるんです。もちろん 非営利団体。法人格のない超法規的団体で、代表は沙織さんが務めています。氷河、そこで 僕と一緒に地上の平和のために戦いませんか?」
「はあ?」

氷河は それまで瞬を、善良で 心優しく美しく、実務的能力を備えた常識人だと思っていた。
少なくとも シベリア生まれの野生児よりは はるかに。
それが“正義の味方の団体”とは。
それは 普通で、一般的で、常識的で、尋常で、ありきたりなものだろうか。
氷河には――氷河にすら――とても そうとは思えなかった。
しかし、瞬は 真顔。
グラード財団総帥も、笑いを こらえている様子をしてはいなかった。
氷河は何も 答えられずにいるというのに、瞬は どんどん話を進めていく。

「カミュは生きています。聖域――その正義の味方の団体の本拠地で」
「し……しかし、カミュは俺に遺産を――。遺産というのは、死亡した者の財産を指す言葉だろう」
「それは方便です。ロシアでは 相続税はありませんけど、贈与税は発生するので、遺産にする必要があったんです。無駄に お金を減らしたくないので」
税務知識のある常識人の顔をして、瞬は いったい何を言っているのだろう?
氷河は絶句し、瞬は ますます雄弁になった。

「カミュは、あなたに聖闘士――その正義の味方のことですけど――聖闘士になる素質を見い出して、そのための技を教えました。でも、聖闘士というのは、才能や技術があっても、聖闘士としての心がなければ務まらないもの。そして、聖闘士になるということは、普通の人間の生き方を諦めることと ほぼ同義です。カミュはあなたの才能を見い出して、嬉しくて、その技だけを伝授した。心までは教えられなかったし、どう教えればいいのかもわからなかった。それで、彼は、あなた自身に決めさせることを考えたんです。つまり、普通の人間が何不自由なく一生を生きていけるだけのお金を与えて、その上で、あなたが どんな生き方を選ぶのかを確かめることにした」

「そのために600億ルーブル――300億円近くの金を 俺にぽんとくれたというのか」
この世に 常識人はいないのか。
カミュの為したことは、シベリアの野生児にも“非常識”と即断できる行為だった。
「人の一生がかかった問題ですから。氷河が お金があることに満足する人間か、そうではないのか。カミュは、自分が見い出した人間が その遺産をどうするのか、賭けをしたのでしょうね。額の多寡は気にすることはありません。600億ルーブルというのはカミュ個人の資産ですけど、それは、グラード財団の資産運用部門が増やしたもの。カミュが聖闘士になった時、グラード財団に信託した元手は1億にも足りなかったそうですから。ちなみに、資産運用の手数料と利益は、聖域の管理運営維持のために使われています」
「……」

常識人というものは、この世界に存在するのか。
もし 存在するとしても、それは所詮 場所や時代によってダイナミックに変動する不定可変のもの。
600億ルーブルが はした金で、正義の味方の団体が存在する。
それが常識である世界があるのだ。
瞬や 城戸沙織は そういう世界の住人で、二人は その世界に移住しないかと、氷河を“勧誘”しているのだ。
彼等は、氷河に『選べ』と言っていた。
だから、氷河は“選ぶ”ことにしたのである。
シベリアの常識、ペテルスブルクの常識、日本の常識――を すべて忘れて。

まず、自分の中に生じてしまった瞬への思いを絶ち切ることができるかどうかを、氷河は考えた。
答えは もちろん、“できない”だった。
その答えに至ると、他の選択は さほど考える必要のない事柄である。
『正義の味方の団体に入る』と言えば、瞬と一緒にいられるのだ。
無意味な金の面倒は、グラード財団の資産運用部門が代行してくれるらしい。
“瞬と一緒にいられる”。
それ以外に望むことも、それ以上の幸福も、氷河には思いつけなかった。

氷河が 自らの選択を 瞬に告げると、瞬は、
「嬉しい」
と言って、その言葉通りに嬉しそうな顔を 氷河に見せてくれた。
氷河が 瞬以上に嬉しい気持ちになったことは 言うまでもない。
本当に、これ以外の喜び、これ以上に嬉しいことはない。


ともあれ、そういう紆余曲折の末、氷河は、瞬が『見付けてほしい』と言っていた“生きる目的”を見付けたのである。
“地上の平和を守る戦いの傍ら、瞬の心身を自分のものにするために努める”という、生涯をかけた目的を。

人間の幸福とは、自分の幸福が何であるのかを知ることである。
知ってしまえば、あとは その実現のために努めればいいだけなのだ。
氷河は 今、幸福な人間だった。






Fin.






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