12月31日、午後11時半。 快晴。気温は 摂氏3度。 真冬の空に 除夜の鐘が鳴り響き始めた頃、瞬たちは浅草寺に向かったのである。 浅草駅から雷門に続く道は、その時刻で既に大混雑。まさに、立錐の余地もない状況だった。 「人がイッパイー!」 ナターシャは興奮して歓声を上げたが、瞬は どうしても その人混みの中にナターシャを連れて入っていく気にはなれなかったのである。 駅には初詣客に向けた案内が出ていて、その案内によると、今年の初詣の人出の見込みは、今夜だけで50万人。 雷門から本堂まで400メートルを進むのに3時間待ち――とのことだった。 浅草寺は、新年の0時を迎えるまで入場禁止。 50万人の行列の先頭は、雷門の前で入場禁止が解除される時を 今か今かと待っているらしい。 その瞬間の様子を捉えようと、テレビ局の中継車があちこちに幾台も停まっており、カメラを抱えたカメラマンや マイクを持ったアナウンサーたちが 慌ただしく行き来している。 「やっぱり やめようよ。明日なら、少しは人も減るだろうし」 列に並んでしまったら最後、途中で抜け出すことはできそうにない。 そうなれば、それから3時間は 満員電車に乗っている状態が続くのである。 そんな無謀に挑戦するのはやめようと瞬は訴えたのだが、氷河は、 「俺に任せておけ」 と、自信満々で言うばかり。 それでいて、氷河は一向に 列に並ぼうとはしない。 いったい 氷河はどうするつもりなのかと案じながら、瞬はナターシャの小さな手を ぎゅっと握りしめた。 「新年まで、1分を切ったぞー」 と、声を上げたのは、50万人の初詣客の誰だったのか。 「59、58、57、56――」 冬空の下の満員電車の乗客たちが あちこちでカウントダウンを開始。 「32、31、30、29」 それは まもなく30を切り、 「12、11、10、9」 10を切り、 「5、4、3、2、1」 やがて片手で数えられる数になって、最後に、 「0」 になった。 ついに、堰き止められていた行列が動き出す時が来たのである。 20XX年開始。 途端に、50万人の初詣客が怒涛のような歓声を上げ、その歓声を打ち消すかのように、参道各所に設置されているらしいスピーカーから、 「走らないでくださいー」 という警告の声が 辺りに響き渡った。 残念ながら、それは 全く意味のない警告だったのだが。 それは 本当に意味のない警告だった。 だが、それは、50万人の初詣客が警告を無視したからではない。 50万人の初詣客は、全員が その警告に従った。 ただの一人も、警告を無視する者はいなかった。 誰も走り出さなかった――走り出せなかったのだ。 新年を迎える瞬間まで入場を禁じるために行列の前に置かれていた柵が取り除かれても、誰一人。 柵が置かれていた場所に、いつのまにか巨大な氷の壁がそびえていたせいで。 見えない壁に前進を阻まれている初詣客の間を縫い、雷門前の氷壁に向かって垂直に、更に2つの新たな氷の壁が伸びていく。 初詣客たちは、見えない2つの壁によって左右に分断され、徐々に参道の脇に押しやられた。 「氷河……!」 『俺に任せておけ』とは、こういうことだったらしい。 氷河は、浅草寺の参道の両脇と正面に巨大な氷の壁を作り、50万人の初詣客を その外に追いやってしまったのだ。 それは まるで野外に突如 出現した巨大水族館。 50万人の初詣客は、さながら 巨大な水槽の中で群れを成すイワシやタイのようだった。 浅草寺本堂に向かって瞬時に出現した、幅2メートルほどの誰も入り込めない通路。 「これで、俺たちの初詣を邪魔する奴はいない」 自身が成し遂げた仕事に 氷河は満足そうだったが、瞬は満足するどころの話ではなかった。 「氷河、なんてことを……」 『地上の平和を守るために使うべき聖闘士の力を こんなことに使うなんて』と、サンシャインビルを氷の塔にしたことのある男を責めて どうなるだろう。 それでも責めなければならないと 気力を振り絞った瞬が、その作業に取り組む前に、 「ワーイ!」 透き通った氷の壁でできた通路の中を、浅草寺の本堂に向かってナターシャが駆け出していた。 「パパ、マーマ! みんなが見てるー!」 望み通りに、人がいっぱいいるところ。 ナターシャが嬉しそうに両手を振ると、それを何かのイベント、あるいは映画かドラマの撮影だと思ったらしい 水槽の中の(外の?)イワシやタイたちが ナターシャに手を振り返してきた。 瞬が慌ててナターシャを追いかけ、そんな二人の後ろから 氷河が悠々と氷の通路を歩み始める。 「可愛い子! あんな子役 いたっけ?」 「美少女! いや、美人か? 見たことないぞ。あんな美少女、一度でも見たことあったら、絶対に忘れないのに」 「金髪碧眼 超イケメン! なに? 外国の映画の撮影なの !? 」 初詣客たちは 自分たちの本来の目的も忘れて、思わぬイベントに沸き立っている。 氷河が作った氷の通路の入り口付近では、各放送局のテレビカメラが回り、この超常現象について アナウンサーたちが何やら けたたましく まくしたてているようだった。 こうなったら、一刻も早く お参りを済ませて逃げるしかない。 通路の途中で幾度も立ち止まっては 沿道の見物客たちに手を振っているナターシャを、瞬は そのたび急ぐようにと急かしたのである。 雷門を入って、距離250メートルほどの仲見世通り、その先の宝蔵門、更に本堂まで、全長約400メートル。 いつのまにか見物客になってしまった初詣客たちが きゃあきゃあ騒ぐ中、瞬たちは、本来なら3時間待ちの道のりを僅か8分で浅草寺本堂に辿り着くことになったのだった。 「はい、ナターシャちゃん。お手々を合わせて、何か お願いをして」 急く気持ちが、瞬の口調を早口にする。 瞬の焦慮は、だが、 「パパとマーマとナターシャが ずうーっと仲良しでいられますように」 というナターシャの“お願い”を聞いた途端、潮が引くように消えてしまっていた。 「ナターシャちゃん……」 そんな願いを真剣に願うナターシャのためになら、50万人の初詣客に『待った』をかけるくらいのことは何でもないこと(のような気がする)。 瞬はナターシャの身体を抱きしめ、『ナターシャの願いが きっと叶いますように』と、胸中で自分の願いを願ったのだった。 |