「“今年の目標”が、毎年、“地上の平和を守る”なのでは芸がない。と、私は思うのよ」 と 言い出したのは、よりにもよって、地上の平和を守るために命をかけて戦うアテナの聖闘士たちを統べる 知恵と戦いの女神アテナその人だった。 「それで 私は、今年から、聖域に MBOを採用することにしたの」 そう アテナが宣言したのは 某年1月2日。 城戸邸に起居する青銅聖闘士たちが、城戸邸ラウンジで ヴァシロピタを食しながら、それぞれの初夢の内容を報告し合っていた時だった。 ギリシャの定番正月スウィーツ・ヴァシロピタは、要するに大きなパウンドケーキで、その中にはコインが一枚 入っている。 切り分けられたケーキの中にコインが入っていれば、そのピースに当たった人間は その年 素晴らしい幸運に出会うことができるという、要するに フランスのガロット・デ・ロア、スコットランドのクリスマス・プディングの類似品なのだが、そのコインが見事に当たってしまった星矢は、その時から 嫌な予感がしていたのだ。 ケーキにコインが入っているということは、その分、他のピースより可食部分が少ないということ。 これほど縁起の悪いニューイヤー・イベントもない。 「MBOって、何だ?」 嫌な予感にかられつつ、星矢が 沙織に尋ねる。 尋ねながら 星矢は、おそらく 沙織は“(M)また(B)馬鹿な(O)思いつき”を思いついたに違いない――と推察していた。 その推察は、(M)もちろん(B)ばっちり(O)大当たりする。 沙織は、新しい年を迎えたばかりの人間(神)に ふさわしく、その瞳に新しい希望の光をたたえ、意気込むように、彼女の聖闘士たちにMBOなる言葉の説明を始めてくれた。 「MBOというのは、Management by objectives の略。“目標による管理”と訳されることが多いわね。ピーター・ドラッカーが提唱した組織マネジメントの一手法よ。業務の担当者に自分の業務目標を設定・申告させて、その進捗や実行を各人が主体的に管理する方法」 「はあ……」 自分でも間の抜けた合いの手だとは思うが、他にどんな言葉も思いつかない。 星矢の間の抜けた声は致し方のないものだったろう。 星矢の気のない応答を、沙織が きっちり無視する。 「そういうわけだから、あなた方。今年は各自、“地上の平和を守る”以外の目標を一つ 設定してちょうだい。どんな目標でもいいわよ。ダイエットをする。何かの資格を取る。一つ新しい技を考案する。いっそ、聖闘士を一人 育成するでもいいわ。とにかく、目標を一つ決めて、私に提出しなさい」 「なんで“地上の平和を守る”じゃ駄目なんだ? それが俺たちが成し遂げなきゃならない究極の目標だろ」 星矢の疑念は至極 尤も。 無論 星矢は、沙織の指示に従うのが面倒臭いから、その“至極 尤も”な疑念を口にしただけだったのだが、それでも星矢の疑念は“至極 尤も”なものだった。 沙織以外の人間には。 つまり、沙織にとっては そうではなかったのである。 「“地上の平和を守る”というのは、聖域全体、聖闘士全員の目標でしょう。“利益をあげること”が企業の目標だと言っているようなものよ。MBOの目標は、個人ごとに設定することに意味があるの。人事部員の目標を“優秀な人材を確保する”、勤労厚生部員の目標を“社員の肥満率を下げる”と設定するようにね。1年後に、私が その目標の達成度を評価して、あなたたちの来年のお年玉の額を決めます。企業の成果主義と同じものと思ってくれればいいわ。成果を挙げた社員の報酬は増えるわけだから、当然 社員のモチベーションは上がるわけ」 自信に満ちて、沙織は そう言うが、はたして そうだろうか。 成果主義は、確かに 成果を挙げた社員の報酬は増やすシステムだが、同時に 成果を挙げることのできなかった人間の報酬を減らすシステムでもあるのだ。 「ただし、あまり難度の低い目標を設定すると、たとえ その目標を達成することができても 高い評価は得られないわよ。逆に 高難度の目標なら、達成度が低くても 高い評価を受けることになるかもしれない」 「なんか、面倒くせー……」 あまり大きくはないが、しかし 沙織には確実に聞こえる程度の音量の声で、星矢は不満を表明した。 が、大抵の組織において、末端の構成員の意見は 上層部の人間には 歯牙にもかけられないもの。 ワンマン経営者の支配する企業、絶対君主制の国等では 特に その傾向が顕著であり、聖域もまた、その例に洩れなかった。 「難しく考えることはないわ。どうしても叶えたい夢や願いが、あなた方にもあるでしょう。それを実現するために努力すればいいの。設定目標は、今日中に私に報告して。わかっているとは思うけど、目標設定を怠った場合、目標設定を怠った者の来年のお年玉はゼロ。どう振舞うのが賢明か、よくよく考えて、自分が為すべきことを為してちょうだいね」 必要事項を言い終えた沙織が、質疑応答タイムも設けず、さっさとラウンジを出ていく。 残された青銅聖闘士たちはデザート用フォークを手にしたまま、唖然呆然。 何とか 気を取り直した星矢は 二切れ目のヴァシロピタに手を伸ばし――もとい、星矢は 気を取り直すために 二切れ目のヴァシロピタに手を伸ばしたのだった。 二切れ目のヴァシロピタを一口食べて、星矢は無事に(?)気を取り直したのである。 気を取り直すと、星矢の中では、いつもの楽観主義が 頭をもたげてきた。 「MBOだか、BMWだか知らねーけど、そんな目標、別に達成できなくても問題ないだろ。お年玉なんか もらえなくても別に困ることもないし。俺たち、城戸邸にいる限り、飯と居場所は確保されてるんだから」 お年玉をもらえなくても、城戸邸に起居する聖闘士たちは 路頭に迷うわけでも、餓死するわけでもない。 沙織の指示に従わなくても、健康で文化的な最低限度の生活は営むことができるのだ。 ならば、あえて面倒な目標設定などする必要はない。 そう思えることが、星矢の気持ちを軽くした。 そんな星矢に、紫龍が、あまり楽観的には見えない表情を作り、向けてくる。 「星矢、おまえは、俺たちのお年玉システムがどういうものなのか知らないのか? 名目は“お年玉”だが、内実は 使途不問の助成金のようなもの。その年の銀行の第一営業日に、俺たち名義の口座に、1年分の俺たちへの助成金が振り込まれてくるんだ。現在は、グラード財団の部長職の年収と同じ額。MBOの評価が低くて、平社員のレベルに下げられたら、俺たちが自由に使える金額は、現在の3分の1程度になるだろう。それでも もらえるならまだまし。目標達成度によっては、沙織さんは その額を0円にもしかねない。自由に自分のものを――服や おやつを買う金もなくなるぞ」 「おやつを買う金がなくなるーっ !? 」 それは、確かに大問題だった。 城戸邸にいる限り、住居と日々の食事は保障されている。 だが、人はパンのみにて生きるに非ず。 人(星矢)が生きていくには、食事の他に、おやつも必要なのだ。 紫龍の説明を受けて 初めて 事の重大性に気付いた星矢は、大々的に青ざめた。 「氷河も、夏場 シベリアに帰る際の旅費は 自分の口座の金を使っているだろう。自由に使える金は必要だ」 氷河は おやつへのこだわりはなかったが、だから 自由に使える金がなくてもいいというわけではない。 文明社会に生きている限り、それは聖闘士(氷河)にも必要なものだった。 「僕も、星の子学園のみんなに お土産や誕生日のプレゼントを買う時には、あのお金を使わせてもらってるから、なくなると困る……」 星矢や氷河に比べれば常識と社会性に恵まれ 現実的でもある瞬は、星矢たちより はるかに深刻に、沙織の持ち出した成果主義のもたらす状況を憂えていた。 それは紫龍も同様である。 「俺も、春麗に、生活費が不足したら あの口座から必要額を引き落とすように言ってある」 「お年玉の有無と多寡は 切実で重要な問題だよね……」 地上の平和を守るために 命をかけて戦っているというのに、聖闘士稼業は 基本的にボランティアである。 その身分と報酬は、全く保障されていない。 つまり、沙織の一存で、アテナの聖闘士たちの生活レベルは激変するのだ。 沙織は有産階級に属する人間――ブルジョワジー、資本家。 彼女の聖闘士たちは無産階級に属する人間――プロレタリアート、賃金労働者。 それがアテナの聖闘士たちの現実、現状なのである。 健康で文化的な最低限度の生活を維持し、かつ、おやつ代、旅費交通費、交際費、家族手当てを確保するために、彼等は 沙織の指示――否、命令――に、粛々と従うしかなかった。 |