母が死んで半年後。
氷河は、1年振りに聖域を訪ねたのである。
瞬の瞳が忘れられず、母の最期の言葉が その胸から消えなかったから。
初めて聖域を訪れた時 同様、見えない壁が氷河の行く手を遮ったが、氷河は 今度は力で その壁を打ち砕こうとはしなかった。
「瞬に会いたい。中に入れてくれ」
氷河が願っても、アテナの結界は消えなかったが、それは 氷河が聖域に入るのを妨げることもしなかった。

前回は、ろくに見ることもできなかった幾つもの神殿を抱く峻厳な聖山。 
おそらく、山の頂にある ひときわ壮麗な神殿がアテナの住まいなのだろう。
だが、そんなものには目もくれず、氷河は山の麓にある小さな家に向かったのである。
場所は はっきりとは憶えていなかったが、あの時 瞬の家の窓から見た山の様子から、瞬の家の位置の おおよその見当はついた。
外の世界とは物理法則が違うような聖域で、もし その家が見付からなかったら――という氷河の懸念は 無用のものだった。
その小さな家は、ちゃんと あるべきところにあった。
おとぎの国にあるような、素朴で小さく可愛らしい民家。
その家で 瞬と同じ時を過ごしたのは たった1年前のことだというのに、なぜか ひどく懐かしく、その懐かしさに引かれるように、氷河は その小さな家の扉に手を掛けたのである。

胸を高鳴らせながら、氷河が その扉を開けようとした時、
「氷河……?」
背後から、氷河の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
瞬は、1年も昔、たった数刻を共に過ごしただけの異邦人の名を憶えていてくれたらしい。
気が急くのに、なぜか ゆっくりと――つまりは、恐る恐る――氷河は 後ろを振り返った。
1年前と すっかり同じ様子の瞬の姿。
氷河を氷河と認めた瞬の瞳は、一瞬 嬉しそうに明るく輝き、だが、すぐに暗くなった。

「氷河……まだ諦めていなかったんですか……」
瞬の瞳が暗くなったのは、氷河の再訪問を迷惑に思うからではなく、その訪問の目的が 前回と同じものだと考えたからだったらしい。
そうではないことを、氷河は、
「母が死んだ。半年前」
と答えることで、瞬に知らせたのである。

「あ……」
瞬の綺麗な瞳から、綺麗な涙の雫が 零れ落ちる。
瞬は人間なのだ。自分と同じ。
瞬の涙が、その事実を氷河に物語ってくれた。
幸いなことだと、氷河は 神に(どの神かは、氷河自身にもわかっていなかったが)感謝したのである。

「俺が ここを出て、その命を終えるまでの半年間、母はずっと幸せだったと思う。永遠の命など、彼女は望んでいなかった。彼女が望んでいたのは、俺の幸福だった。おまえが、そのことを俺に気付かせてくれた」
そう告げる氷河の声が静かで穏やかなことが、逆に 瞬を戸惑わせたようだった。
ならば なぜ、この異邦人は再び聖域にやってきたのか。
それが 瞬には わからなかったのだろう。

「じゃあ、なぜ……」
「俺の心が、おまえに会いたいと うるさく騒ぐんだ。“外”の家は、母の看病に力を貸してくれた者に譲り、マーマの形見だけを持って来た」
「氷河……それは――」
これからの時間を瞬と共に生きるにはどうすればいいのかを、氷河は知らなかった。
外の人間が聖域に住むことは可能なのか。
聖域にいる人間を 外の世界に連れ出すことは可能なのか。
氷河は ただ――氷河は ただ、場所はどこでもいいから、瞬と共に生きていたかったのだ。
他には何もいらなかった。

「俺は一人では生きていられない男だ。だから、おまえのところに来た」
氷河は それしか考えていなかったのだが、瞬には それだけでは説明不足だったらしい。
余計なことを言わない代わりに、必要なことも言わない男に、瞬は困惑の目を向けてきた。
「氷河は お友だちがほしいの? それでまた、僕のところに来たの?」
瞬に問われたことに答えるために 初めて、氷河は自分の望みの具体的な内容を考え始めたのである。
それは、
「友人関係というのは、たまたま一緒にいる機会を持ち、たまたま行動を共にすることが多くなり、そうするうちに自然に成立する間柄のことだろう。そうではなく、俺は積極的かつ能動的かつ意図的に おまえと共に過ごす時間を持ち、おまえと親しくなりたい。俺は、その場所は どこでもいいんだが――おまえに生活を変える負担を強いないためには、この聖域で それをした方がいいか?」
というものだった。
瞬の瞳が、困惑を通り越して、混乱の様相を呈し始める。

「あ……あの……氷河。氷河は ここが 楽園でも桃源郷でもないことは わかってます? ここは、地上を守護する女神アテナの統べる聖域。女神アテナと地上の平和を守る闘士――聖闘士でなければ いることはできない場所なんです。氷河は 聖闘士になりたいの? そういうこと?」
氷河の言葉が足りなかったのか、瞬の混乱が激しすぎたのか――どこか 何かが ずれた瞬の問い掛けに、氷河は眉をしかめることになった。

「ここでは 人間界の常識は通じないのか?」
「は?」
「俺は、おまえのオトモダチになりたいわけでも、聖闘士とやらになりたいわけでもない。俺がなりたいのは、おまえの下僕だ。俺は、恋の欲望に突き動かされて ここに来たんだ」
瞬に説明しているうちに、氷河自身にも、自分の気持ちが より正確にわかってきた。
瞬は、逆に、混乱の度合いが いや増しに増してきているようだったが。
それでも何とか、氷河が口にする言葉の意味だけは理解できてきたらしい。
感情は、まだ 追いつけないでいるにしても。

「ぼ……僕は男子です」
「そうだったのか? 本当に綺麗な目だ」
氷河が、右の手をのばし、瞬の頬に触れる。
「ひょ……氷河……」
「もちろん、目だけでなく、顔立ちも綺麗だ。なにより心根が優しい。俺が 一生 共にいたいと思っても、不思議なことではないだろう?」
「氷河、なに言って……」
氷河の左の手は 瞬の右腕を掴み、彼は、そのまま ぐいと瞬の身体を自分の方に引き寄せた。
瞬の身体を抱きしめ、その髪に唇を押しつける。

「マーマが言っていた。俺は おまえに恋をしているんだと。マーマが嘘をつくはずがない。俺はおまえと幸せになる。それがマーマの望みだったから」
「ど……どうして、そういうことを勝手に一人で決めるの!」
瞬は、氷河を怒鳴りつけてきたが、氷河の腕と胸から逃げようとはしなかった。
驚きのあまり、四肢が強張ってしまっているのかもしれなかったが、それは氷河には好都合以外の何物でもなかった。
「俺が勝手に決めたんじゃない。マーマの願いだ。叶えてくれ」
「……」

驚きで強張っていたのかもしれない瞬の身体から力が抜ける。
そういう言い方をすれば、母を知らない優しい心の持ち主は、恋人志願の男に冷たくすることはできないだろう――と、氷河は計算していたわけではない。
氷河にとって、それは ただ事実――ただの事実だった。
かつ、切実な願いでもあった。
母のために、自分は瞬と幸せになる。ならなければならない。なりたい――というのが。
そして 瞬は、そのために すべてを捨てて聖域に来た――おまえの許に来た――と訴える男を 冷たく追い返してしまえる人間ではなかったのである。
外の世界のすべてを捨てて ここに来た氷河を 外の世界に追い返してしまったら、そこで彼は どうやって生きていくのか。そもそも生きていけるのか――と案じてしまうのが、瞬という人間だったのだ。
もし そんなことになったら、彼の母は 息子の不幸を どれほど深く嘆くことか――と思ってしまうのが。
しかし。

しかし、ここは女神アテナの統べる聖域。
彼女に許された人間しか入ることはできないし、瞬は 氷河と違って、恋のために すべてを捨てることのできる人間ではなかった。
地上の平和を守るために戦うことは、瞬にとって、瞬自身が生きることの意味であり、生きていることの証でもあったのだから。
かといって、氷河と氷河の母を悲しませるようなことはしたくない。
相反する二つの心の間で、瞬は身動きができなくなってしまっていたのである。






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