「ですから、僕には そのつもりはないんです。帰ってください」
ナターシャを抱えて瞬の部屋に入っていった氷河を 最初に出迎えたのは、瞬の声。
ほぼ氷河の推察に合致する、瞬の拒絶の言葉だった。
やはり そういうことだったのかと、氷河は安堵し、かつ 腹を立てたのだが、瞬と来客の会話は まもなく不可思議な方向に進み始めた。

「後生です。社長が帰ってきてくださらないと、300人の社員が路頭に迷うことになるんです」
悲痛な声は、三人の来客の中の一人のものだろう。
傲慢と卑屈が入り混じった、奇妙な声音。
地上世界の危機には関係がないようだったが、だから平和で穏やかな話かというと、そうでもなさそうである。
どちらにしろ、それは、氷河には全く理解できない発言だった。

「あの会社の今の社長はあなたでしょう。僕はもう、あの会社とは何の関わりもない人間です。あなた方の力で 対処してください」
「我々の社長は、あなたしかしないんです……!」
最初に聞こえた声とは、また別の声。
「社長は、自分の起こした会社が消えてしまっても構わないと おっしゃるんですか!」
そして、第三の声。
彼等が“社長”と呼んでいるのは、どうやら瞬のことであるらしい。
瞬を社長と呼ぶ男たちの声は、確かに 悲痛な響きをたたえた哀願だったが、それでいて どこか攻撃的。殺気立ってさえいる。
それは まさに、窮鼠が猫を噛む直前の声だった。

「パパ……」
彼等の声に含まれている殺気を感じ取ったのだろう。
氷河の腕に抱きかかえられていたナターシャが、怯えたように氷河の首に しがみついてくる。
「大丈夫だ」
大丈夫なことは確実だったが、事情が全く理解できない。
氷河は ナターシャを抱きかかえたまま、来客中の客間に入っていったのである。
当然、ノックなどしなかった。
ノックをしていたら、瞬は、氷河に入室の許可を与える前に 来客たちをソファに掛けさせていただろう。
だが、氷河はノックをしなかったので――瞬は来客たちの体面を保つための時間をとることができなかったのだ。

戦闘用の鎧ではなく、背広を身につけた三人の来客。
彼等は、多少 年齢に幅はあるようだったが、全員が30代前後の男たちで、一人はイタリアの某有名ブランドのスーツ、一人はスイスの某有名ブランドの腕時計、一人はフランスの某有名ブランドの眼鏡を身につけた、見るからにニューリッチという様子をした男たちだった。
氷河のバーに、アクセサリーとしての女性を同伴してくるタイプの男。
自分の舌ではなく、ネットや書籍で覚えた酒の薀蓄を連れに語るタイプの男たちだった。

それはいい。
それはいいのである。
そんな男たちを、氷河は見慣れていた。
だが、さすがの氷河も、その手の男たちが三人、他人の家の客間で ソファにも座らず 床に膝をついて土下座をしている場面を見るのは、これが初めてだったのである。
三人の前に、瞬が困惑顔で立っている。
その場面を見て 氷河にわかったことは、ただ一つ。
この男たちはアテナの聖闘士の敵ではない――ということだけだった。


「瞬、こいつ等は何者だ。なぜ、こんな真似をしている」
「氷河……どうして……」
見られたくないところを見られてしまった――と言わんばかりの瞬の瞳。
氷河は、それが浮気現場でさえなければ何でもよかったので、瞬の困惑には 気もとめなかったが。
「ナターシャが、マーマを助けてくれと、俺に連絡をよこしたんだ。こいつ等は何者だ」
「この人たちは……僕の元同僚というか、何というか……」
言いにくそうに、瞬が口ごもる。
イタリア製スーツを身につけたニューリッチその1が、床に膝をついたままで、瞬の説明を訂正してきた。
「我々は、社長の元部下です。君は誰だ。社長の何だ。なぜ、その子は社長を、その……マ……マーマと――」

氷河が状況を理解できていないのと同じくらい、彼も――彼等も、現況に困惑しているようだった。
それはそうだろう。
これは理解の範疇を超えた状況であるに違いなかった。
瞬を男子と知っている人間には。
この状況を完全に理解し把握できているのは、どうやら 瞬一人だけのようだった。






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