ニューリッチたちの無礼には 思い切り むかついたのだが、彼等の気持ちは わからないでもないので、氷河は、平和な家庭を騒がせてくれた男たちを罵倒することだけは、かろうじて耐えたのである。
彼等にしてみれば、ナターシャのパパは、自分たちを育ててくれた優しく美しく聡明な母を その手から奪った、憎んでも憎みきれない 盗人なのだ。
わかりたくはないのだが、氷河には、彼等の気持ちがわかった。
わかりすぎるほど、よくわかってしまったのである。

だから、氷河が、
「全く わからん男共だ。おまえみたいに綺麗で優しい人間を前にして、会社がどうの、売上がこうのと、不粋なことばかり 喚き立てていられる あいつ等の感性と神経が、俺には理解できん」
と 瞬にぼやいたのは、瞬が あの男たちの屈折した気持ちに気付いているのかどうかを探るため。
そして、彼等を ただの“不粋な男”にしてしまうためだったろう。
瞬は、氷河の内偵を微笑で(かわ)し、ナターシャのケアの方を優先させた。

「ナターシャちゃん、驚かせてちゃって、ごめんね。僕はナターシャちゃんとパパと ずっと一緒だからね」
マーマを奪おうとする悪者たちが改心し 退散したことに安心したのか、ナターシャは 何事もなかったかのように けろっとした顔になっていた。
そして、興味深げな目をして、瞬に尋ねてくる。

「マーマのオシゴトは、お熱が出たり 胸が苦しくなって、マーマを頼ってくる人を、マーマにしかできない方法で楽にしてあげることでしょう? リーダーっていうのを育てるのもマーマのオシゴトなの?」
ナターシャの意識は既に、悪者でなくなった悪者より、マーマのオシゴトの方に移ってしまっていたらしい。
いったい氷河は、ナターシャのマーマのお仕事を、ナターシャにどう説明したのか。
僕の患者は氷河一人だけではないのだ――と 氷河を睨みかけ、瞬は、だが、そうする直前で思いとどまった。
氷河の説明は 全く間違っていない。
氷河の説明は 全く正しいことに気付いて。
ここで氷河を責めると、どういう切り返しをされるか わからない。
瞬は、さりげなく、視線をナターシャの上に戻した。

「僕は、いろんなお仕事をしているんだよ。パパと一緒にナターシャちゃんと遊んだり、正義の味方をしたり」
「ナターシャと遊ぶのも、マーマのオシゴトなの? じゃあ、ナターシャのオシゴトは パパやマーマと遊ぶこと?」
「そうだね」
ナターシャは無邪気で賢い。
むしろ、無邪気で素直だから 賢い。
瞬は、ナターシャの澄んで大きな瞳を覗き込んだ。

「今はまだ ナターシャちゃんには わからないかもしれないけど――人のお仕事っていうのは、みんな おんなじなの。人のお仕事っていうのは、人を幸せにすることなんだよ。ナターシャちゃんのパパは、美味しい飲み物で、疲れた人たちを励ましてあげてる。僕は、身体が痛い人たちを痛くなくなるようにしてあげてる。そんなふうに――ナターシャちゃんも、僕やパパを幸せにしてくれてるよ」
「シアワセって、毎日生きてることを楽しいって思う気持ちのことでしょう? パパが言ってた」
「うん。そうだよ」
「パパもマーマも、ナターシャをシアワセにしてくれてるよ」
「本当? それなら、僕は とっても嬉しい」
「ほんとだよ。パパもマーマもナターシャも、みんなリッパだね。みんな、オシゴトしてるんだね」
「うん。みんな、立派だねー」
みんな立派だが、ナターシャが いちばん立派だと思う。
ナターシャの笑顔と言葉に 幸せにしてもらった瞬は、心から そう思い、ナターシャに微笑み、それから、氷河のオシゴトのことを(遅ればせながら)思い出した。

「そういえば、氷河、お店はどうしたの?」
「店? ああ。放っぽってきた」
「放っぽってきた? どうして?」
たった今、パパとマーマとナターシャは立派に お仕事をしているという話をしたばかりなのに、『パパは お仕事を放っぽってきた』では、ナターシャに示しがつかない。
我知らず 眉根を寄せた瞬に、
「俺は、おまえとナターシャを幸せにする仕事の方を優先させたんだ。俺が 店を放っぽって、おまえとナターシャの許にかけつけてくるのは当然のことだ。ケーキと花を持った背広の男が来たと言われれば、普通、おまえにイカれた男が、おまえに迫りに来たのだと思うだろう」
「普通、思いません」

瞬に きっぱり言われてしまった氷河が、反論したそうな顔になる。
しかし、瞬は、氷河に反論を許さなかった。
「早く、お店に戻って。氷河に幸せにしてもらいたいと思っている人は たくさんいるんだから、そういう人たちを がっかりさせちゃ駄目だよ。氷河が あんまり いい加減なことをしてると、僕が蘭子さんのところに お詫びに行かなきゃならなくなる」
「……」

言いたいことはあった。
言いたいことは、いくらでもあったのだが。
店を放っぽって 瞬とナターシャの許に駆けつけ、結局 何もできなかった氷河としては、瞬の命令に従うしかなかったのである。
人を幸せにするという人の仕事は、難しいようで簡単、簡単なようで なかなかに難しいもののようだった。

「マーマ。パパはナターシャの半分しかリッパじゃないの?」
「んー、そうだねえ。でも、ナターシャちゃんの半分 立派なのなら、かなり立派な方なんじゃないかな」
誰よりも家族の幸せを願っているパパに対して、言いたいことを言ってくれるものである。
だが、
「ナターシャの半分ー!」
と歓声をあげて、得意げに笑うナターシャの様子を見せられて、氷河は何も言えなくなってしまったのだった。

いずれ ナターシャは、この家の真のリーダーが誰なのに気付いてしまうだろう。
そして 瞬は、着々と次代のリーダーを育てていくだろう。
人生を生きるということは、難しいようで簡単、簡単なようで なかなかに難しいものである。
右の肩に幸せ、左の肩に溜め息を載せて、氷河は すみやかに彼の仕事場に戻ることになったのだった。






Fin.






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