バレンタイン革命






「虚礼は廃止すべきだ」
白鳥座の聖闘士が突然 そんなことを言い出したのは、光あふれる地上世界が新しい年を迎えて1ヶ月が過ぎた頃。
クリスマス、正月の騒ぎが静まり、節分の恵方巻商戦は一段落。
つまり、いよいよ日本全国がバレンタイン商戦の天王山を迎えようとしている時だった。

抑揚がなく、淡々とした声。
にもかかわらず、強い力が込められた 断固とした主張。
時期的に、どう考えても、氷河が廃止すべきだと主張しているのは、バレンタインデーのチョコレートの贈答イベントのことである。
氷河のその言葉を聞いて、瞬は瞬時に 顔を強張らせることになった。
それも当然。
ラウンジのソファに掛けている瞬の膝の上には、デパートやチョコレートショップのカタログやパンフレットが幾つも重ねて置かれ、瞬は、例年通り、仲間に贈るバレンタインチョコレートの選択と決定作業の真っ最中だったのだ。

氷河が、今 この場で、このタイミングで そんなことを言い出したのは おそらく、瞬が熱心に その作業に いそしんでいたからだったろう。
しかし、星矢は、なぜ今 この場で、このタイミングで そんなことを言い出すのだと、氷河の思い遣りのなさに腹を立てたのである。
だから、星矢が 氷河の主張に真っ向から反対していったのは、氷河の主張を誤りだと思うからではなく、瞬の気持ちを気遣ってのことだった。
そもそも 氷河は なぜ今年に限って そんなことを言い出したのか。
星矢は、氷河の主張に反対する以前に、彼の主張の意味と目的が理解できなかった。

「おまえの言う虚礼って、バレンタインデーのチョコのことかよ? なんで廃止しなきゃならないんだ? 年に一度の お楽しみじゃん。チョコ一つで、人間関係を円滑にできて、経済の活性化にも貢献できる。チョコは美味いし、毎年 いろんな趣向のチョコが出てきて面白いし、悪いことなんて 何一つないだろ」
星矢は、毎年 瞬が選んでくれるチョコレートを楽しみにしていたし、それを美味しく食してもいた。
瞬にチョコレートを贈られることを喜んでいる人間が 現に ここにいるというのに、それを廃止しろというのは横暴以外の何物でもない。
そういう考えのもと、星矢は 氷河に噛みついていったのだが、それは いわば、不意打ちを食らった人間の その場しのぎの反撃。
それに比して、氷河は、仲間の反論を見越して、事前に周到な理論武装を済ませていたようだった。

「悪いことが何一つないだと? おまえは 何を言っているんだ。現実をよく見ろ! バレンタインデーの騒ぎなんて、悪いことだらけじゃないか。おまえは、バレンタインデーのチョコレートに全く縁のない男の悲哀や、もてない男の気持ちを考えたことがあるのか? ダイエット中にチョコレートを贈られる男の迷惑や、チョコレートをもらって浮かれていたのに、それが ただの義理チョコだったことを知らされて落胆する男の気持ちは? 逆に、義理チョコを本気にされて、ストーカー被害に会うことになる女の迷惑。50円の義理チョコに1000円の返礼を余儀なくされる男性会社員。カノジョ以外の女のチョコレートを受け取ったことで、破綻するカップルもいるかもしれん。無駄だ、無駄。バレンタインデーのチョコレートの贈答など、百害あって一利なし。そんな くだらないことは、地上の平和維持のためにも、即刻やめるべきなんだ!」
「……」

氷河は、バレンタインチョコレートに躓いて転び、怪我をしたことでもあるのだろうか。
あるいは、バレンタインチョコレートのせいで女に振られたか、はたまた、チョコレートに親を殺されたか。
そんなことがあるはずがないのに、そうとしか思えない氷河の剣幕。
非寛容で高圧的な物言い。
有無を言わさぬ強烈なプレッシャー。
星矢は、白鳥座の聖闘士の攻撃的小宇宙に、しばし あっけにとられてしまったのである。
なぜ今年に限って、氷河はバレンタインデー反対論者になってしまったのか。
星矢には、その理由に全く心当たりがなかった。

「いったい どうしたんだよ? 何かあったのか? おまえ、去年まで毎年、デパートのチョコレート売り場やチョコレートショップに行く瞬のボディガード役を、ほいほい喜んで引き受けてたじゃないか」
「あ? ああ、そういう害もあったな。そうだ、あの戦場で怪我人が出るという弊害もある」
「広い日本、怪我人なんか、チョコレート売り場に限らず、衣料品売り場でも生活用品売り場でも、毎日 一人二人は出てるだろ。罪のないチョコレートに 言いがかり つけんなよ」
「衣料品売り場や生活用品売り場での怪我は、客か店員の不注意によるものが ほとんどだろうが、この時季のチョコレート売り場での怪我は、チョコレートを求める者たちと チョコレートを売りつけようとする者たちの執念と狂気が入り混じってできた邪悪な精神的パワーが、人間の心身に悪影響を及ぼすがゆえのものなんだ!」

いったい 氷河は、冗談ではなく本気で、狂気ではなく正気で、そんなことを言っているのだろうか。
目が全く笑っていない氷河の様子に、星矢は、氷河の頭と心の具合いが 真剣に心配になってきてしまった。
これ以上 氷河の狂気を刺激しないよう、戦法を変えてみる。
「俺たちは 毎年 瞬からチョコもらえてるんだから、チョコレートに縁のない男の悲哀も何もないだろ。瞬がくれるチョコには ちゃんと心がこもってるし、瞬は 普通では滅多に お目にかかれないレベルの美少女だ。俺たちは、この地上世界でバレンタインデーを迎える男たちのヒエラルキーの頂点に立ってると言っていい。俺たちには何の不満もないだろ?」
「星矢……。その主張には、さすがに 少々無理がないか」

それまで氷河と星矢の舌戦を脇で聞いているだけだった紫龍が、やっと参戦してくる。
第一次世界大戦では開戦から3年後、第二次世界大戦では2年後。
中立の立場を堅持していた米国が 結局 参戦を決定したのは、世界の正義秩序を守るためというより、国益を守るためだったろう。
そして、紫龍の参戦もまた、世界や仲間たちの常識秩序を守るためというより、星矢と氷河の滅茶苦茶な意見の応酬に耐えきれなくなりつつあった 自身の精神の安定を守るためのものだったに違いない。

“この地上世界でバレンタインデーを迎える男たちのヒエラルキー”なるものが、もし本当に 存在するなら、その頂点にいるのは、好意を抱いている女性からチョコレートを贈られた男たちだろう。
それが どれほど心尽くしのチョコレートであっても、そのチョコレートの贈り主が どれほど美少女(に見える人間)であっても、仲間への友情の証として同性からチョコレートを贈られた男たちが、そのヒエラルキーの頂点に立っているという考えは、さすがに 一般的ではない。

紫龍は、そういう常識論一般論を述べようとしたのである。
もちろん、星矢の事情と立場は わかっている。
一見 美少女の瞬から心尽くしのチョコレートをもらう方が、へたに本物の女の子からチョコレートを贈られるより、面倒がなくて、安心して喜ぶことができる。
それが星矢の考え方、星矢のスタンスなのだ。
しかし、それは あくまでも星矢一人の考え方、星矢一人のスタンス。
決して一般的普遍的なものではない。

では 氷河の主張には普遍的な理があるかというと、それもまた怪しい。
氷河は局所局所の弊害にばかり 目を向けて、大局の益を完全に無視している。
それは、いかにも 氷河らしいことなのだが、要するに それもまた、氷河一人の考え方、氷河一人のスタンス。
要するに、氷河の意見も星矢の意見も滅茶苦茶なのだ。
だから、紫龍は、一般的常識的な見解を 氷河と星矢の前に提出し、二人の争いを治めようとしたのである。
治めようとしたのだが。

第一次世界大戦や第二次世界大戦において、米国の参戦が戦局を大きく動かしたのは、かの国が力を持っていたからである。
資源、経済力、そして軍事力を、米国は持っていた。
しかし、紫龍が 今 持っているのは“常識”のみ。
戦時下で、常識や良識ほど 無力なものはない。
それが、残酷で無情な現実の姿なのだ。
その上。

あろうことか、氷河は、非力な常識人の前で、星矢の非常識を前提にした 更に とんでもない理論を展開し始めてくれたのである。
「俺たちがバレンタインデーのヒエルキーの頂点にいることは、無論 認める。その点に関しては、俺にも 全く異論はない。だが、それはそれ、これはこれだ。俺は、地上の平和を守るために戦うアテナの聖闘士として、そのヒエラルキー下位にいる者たち、俺たちより不運で気の毒な日本中の大多数の男たちの気持ちを思い遣ることを提案しているんだ。だいいち、甘党でない男にチョコレートなど、有難迷惑以外の何物でもないだろう!」

戦況は、いよいよ混沌。
無理(氷河)を通せば、道理(紫龍)が引っ込む。
こうなると、もはや、常識(紫龍)は非常識(氷河)に太刀打ちできない。
男の戦い(氷河と星矢の戦い)に、常識(紫龍)は不要。
常識(紫龍)は、すごすごと引き下がらざるを得なかったのである。
とはいえ、紫龍も アテナの聖闘士。
彼とて、氷河や星矢に対抗できるだけの力(非常識)は、もちろん ちゃんと(?)持っていた。
しかしながら、紫龍が その力を使うには 脱衣という行為が必要で、紫龍は さすがにチョコレートのために わざわざ衣服を脱ぐ気にはなれなかったのである。

そういう経緯で 常識が早々にリタイアしてしまった城戸邸ラウンジで 瞬が青ざめたのは、氷河が甘党でないことを、瞬が知っていたからだったろう。
瞬の蒼白の頬を見て、星矢は 一層 いきり立った。
「なに言ってんだよ! だから、瞬は毎年、俺たちの好みを考慮して、あれこれ悩んで、チョコレートを選んでくれてるだろ。おまえには、嘘か真か カカオ120パーセントの超ビターチョコだの、ハバネラチョコだの、山椒チョコだの。おまえだって、去年までは 面白がって瞬からのチョコレートを食ってたじゃないか!」
「星矢……!」
瞬は、それ以上、自分を擁護する星矢の言葉を聞いていることができなかったらしい。
庇われれば庇われるほど、瞬は 心苦しさが増すばかりだったのだろう。
仲間の名を呼び、瞬は、それ以上の反撃はやめてくれと 視線で星矢に懇願した。
そして、静かに首を左右に振る。

「いいんだよ。氷河は優しいから、これまでは 僕の気持ちを思い遣って、僕の贈るチョコレートを無理して食べてくれてたんだと思う……」
「優しい男が、このタイミングで、こんなこと言い出すかよ! 百歩譲って、氷河が優しい男なんだとしても――だとしたら なおさら、氷河は おまえからのチョコを謹んで拝領し、死ぬほど感謝して食うべきなんだよ! おまえのおかげで、氷河は これまで、バレンタインデーにチョコレート一つ もらえない男の悲哀を味わわずに済んでたんだから! 氷河なんかにチョコレート贈るような奇特な人間は、世界広しと言えど、おまえくらいしかいないんだから!」
武士の情けで、これまで言わずにいた その一言。
それは(普通の)男にとっては、二度と立ち直ることができないほどの致命傷を負わせる力を備えた強烈な一撃だったろう。

星矢は、要するに、氷河に、『おまえは世界一 もてない男だ』と言っていたのだ。
しかも、それは事実である。
この地上世界に“世界一 もてない男”は億単位で存在するだろうが、ともかく、それは紛れもない事実なのだ。
星矢が口にした その言葉は、普通の神経を持つ男であれば、確実に絶命しているはずの必殺の一撃だった。
が、幸か不幸か、氷河は 普通の神経を持ち合わせていない男だったので、かすり傷の一つも負わなかった――らしい。
彼は、星矢の攻撃を涼しい顔で受け流し、彼らしくないクールさで、
「虚礼を廃止して、誰も チョコレートを もらえなければ、チョコレートを もらえないことに悲哀を感じる男も発生しない」
と言い切ってくれたのだ。
氷河にダメージを与えなければ気が済まない星矢は、しかし、攻撃の矛を収めなかった。

「そこがおかしいんだよ! なんで、『誰も チョコレートを もらえなければいい』になるんだ? 今時の日本のバレンタインデーは、んな深刻なイベントじゃねーの。会社では義理チョコ、学校では友チョコ、自分用の自己チョコなんてのもある、お気楽なイベントなの。チョコレートを一つももらえない男の悲哀を味わいたくなかったら、そいつは、自分のためのチョコレートを自分で調達すればいいだけで、バレンタインデーのイベント自体には、何の不都合も弊害もないんだよ。今時のバレンタインデーイベントは 明るく楽しいイベントで、花見や運動会や遠足と おんなじ。花見団子や弁当が チョコレートなだけ!」

星矢の目的は 今や、瞬からチョコレートをもらうことでも、そのチョコレートを食べることでも、瞬の沈んだ気持ちを浮上させることでもなく、氷河に『俺が間違っていた』と言わせることになってしまっていた(かもしれない)。
そして 氷河は、どんなことになっても 星矢の望む言葉を 星矢に与えるつもりはないようだった。
氷河は もちろん、『俺が間違っていた』とは言わなかった。

「それが気に入らんのだ! そもそも バレンタインデーというのは、ローマ帝政時代、皇帝の出した結婚禁止令に背いて 兵士を結婚させてやり、その咎で殉教した聖ヴァレンティヌスに由来する記念日だぞ。バレンタインデーは、恋人たちの命がけの愛の誓いの日。昨今は、それを軽々しく扱いすぎなんだ。一生を共に過ごしたいと思えるほど愛している人、その人のためになら自分の命をかけることもできると断言できる人。そんな人に贈るチョコレートなら、俺も否定はしない。とにかく、義理チョコだの友チョコだの、そういう軽薄な虚礼が嫌なんだ。本命チョコだって、わざわざ“本命”と但し書きがつくあたり、胡散臭さの極み。日本のバレンタインデーの騒動は、菓子メーカーに踊らされた衆愚による馬鹿げた茶番だ。俺は、断固 反対する! 俺は 俺の一命を賭して、この日本からバレンタインデーなる馬鹿げた茶番を、必ずや撲滅してみせる!」
「え……? いや、さすがに命をかけるほどのことでは……」

かのチャーリー・チャップリンが『独裁者』で演じた床屋のチャリーの史上最高の大演説。
そこには、全人類の自由と幸福を願う、高い理想があった。
世界最高の英文学作家ウィリアム・シェイクスピアが著わした『ジュリアス・シーザー』において、宿敵ブルータスを追い詰めたマーク・アントニーの名演説。
そこには、聴衆の心の向きを180度 変えるほどの巧みな人心掌握術と説得力があった。
星矢たちが、氷河の一命を賭した演説に圧倒されたのは、彼の演説の中に それらのものを見たからではない。

氷河の演説に、崇高な理想はなかった。
そもそも 理がなかった。
無論、優れた技巧もなかった。
理も技もない氷河の演説にあったのは、しいて言うなら“意気”、そして、氷雪の聖闘士にあるまじき“熱”だった。
へたに刺激を与えると、宇宙開闢のビッグバン以上の大爆発を起こすのではないかと案じずにはいられないほど巨大な熱エネルギー。
それが 氷河の仲間たちを圧倒した――否、むしろ 恐れを抱かせたのだ。
両の拳を きつく握りしめて 熱弁をふるう氷河に、ひたすら唖然とし、呆然とし、結局 星矢は何も言えなくなってしまったのである。






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