そうして迎えた、バレンタインデー当日。その朝。 瞬は 結局、昨日 あれからチョコレートを買いに出ることはなかった。 昨日までと同じように沈んだ顔で、去年とは異なり手ぶらで ラウンジに現れた瞬の姿を認めた星矢が、がっくりと肩を落とす。 今日、自分は瞬からチョコレートをもらうことはできない。 その惨酷な現実を確認できてしまった途端、星矢の中で燃え盛っていた憤怒の炎は消え、星矢の心は、ただ 言いようのない侘しさに支配されてしまったのだった。 手ぶらの瞬を責めるわけにはいかないので 紫龍に向かって、つい愚痴を吐いてしまう。 「はあ……。せめて、80円のハートチョコ……いや、10円のうまい棒チョコレート味でいいからさ。やっぱり、バレンタインデーにはさ、可愛い子からチョコもらって、『あー、俺は幸せな男だなー』って思いたいじゃん。それを、氷河の奴……」 星矢の謙虚なところ(?)は、自分が瞬以外の“可愛い子”からチョコレートをもらうことはないと信じ込んでいるところである。 欲しがる素振りを見せれば、星矢にチョコレートを贈りたい女の子たちは、実は いくらでもいるのだが、これまでの星矢は、そういう女の子たちから探りを入れられるたび、『俺たちには、瞬が毎年 チョコレートくれるんだ!』と得意げに答え続けていたので、そういう女子たちは跡を絶ってしまったのだ。 星矢としては、瞬からチョコレートをもらえれば、それで天下をとった気になれるのだから、自慢のつもりで そう答えていたにすぎなかったろう。 決して 『瞬から もらうチョコレート以外はいらない』と言っているつもりはなかったろうが、結果的に 星矢の自慢は、他の女の子たちからチョコレートを もらえる可能性を自ら 潰すことになってしまっていたのだ。 星矢のそれを無欲と言うべきか、それとも大欲と言うべきなのか。 その判断は、紫龍にもできなかった。 いずれにしても、いつも元気な星矢が、今 途轍もなく落ち込んでいるのは紛う方なき事実。 その消沈振りを見兼ねた紫龍は、星矢の気持ちを引き立てるために、瞬に提案した。 「明日なら、チョコレートを配っても、氷河は文句は言わないのではないか? 明日なら、それはバレンタインチョコレートではなく、ただのチョコレート、ただの おやつだ」 「そ……そうかな?」 星矢の落胆は、彼が それほどまでに、瞬から贈られるバレンタインチョコレートを喜んでいたことの証左である。 であればこそ、瞬は、自分が 今年 星矢をこれほど落胆させていることに 心苦しさを覚えていた。 それで星矢が少しでも元気になってくれるのならと、紫龍の提案に乗ろうとした瞬を、肝心の星矢が退ける。 「明日じゃ駄目なんだよ。これは お祭りなんだ。今日 チョコレートをもらうってとこが重要なんだ。今日 食べるチョコレートと明日食べるチョコレートは、同じチョコでも違うもんなんだよ。世の男共が やにさがってチョコ食ってる時に、自分は そうできないってのが侘しいの。バレンタインデーの次の日のチョコなんて、つまり、売れ残りの3割引きチョコだろ」 「あ……」 『3割引きになる前に――今日のうちに、買っておくから』と言ったところで、もらえるのが明日になるなら、星矢には同じことなのだろう。 「今日でも明日でも、チョコレートを食べられればいいのかと思っていたのに、意外に 形にこだわる男だったんだな、星矢、おまえ」 紫龍が感心したように そう言い、そんなことに感心されたことに、星矢は機嫌を損ねてしまったらしい。 星矢は むっとした顔になり、自分を侮ってくれた仲間に噛みついていこうとした――ようだった。 星矢が実際に そうする前に、彼が本当に噛みつきたい男が その場にやってきてくれたおかげで、紫龍は 幸運にも星矢の牙に掛からずに済んだのである。 星矢が本当に噛みつきたい相手――氷河――は、いつも通り 愛想も愛嬌もない顔で、『おはよう』の挨拶もなしに、彼の仲間たちのいるラウンジに入ってきた。 飛んで火に入る夏の虫――むしろ 冬の虫と言うべきか。 夏の虫でも 冬の虫でも、そんなことは、今の星矢にはどうでもよかった。 天馬座の聖闘士を“この地上世界でバレンタインデーを迎える男たちのヒエラルキー”の頂点から底辺に落としてくれた男が、のこのこと天馬座の聖闘士の前にやってきたのだ。 今 自分が味わっている侘しさと怒りをぶつけて 鬱憤を晴らすのに最適の標的――否、唯一の標的が。 今の星矢にとって、氷河は夏の虫でも冬の虫でもない船――“渡りに船”の船だった。 「氷河っ。貴様、よくも、よりにもよって今日、俺の前に顔を出せたもんだなっ!」 星矢は、天も裂けよと言わんばかりの大音声で、彼の船を出迎えた。 ――のだが。 星矢の大声が聞こえていないはずはないのに――聞こえていないのだろうか? ――氷河は、星矢の熱烈な歓迎に気付いた様子を見せなかった。 ラウンジの三人掛けソファの端に 身体を小さくして座っている瞬の許に一直線。 星矢の大音声はもちろん、瞬の隣りで立ち上がり憤怒の形相を浮かべている星矢の姿すら、氷河の五感は 空気レベルにしか認知していないようだった。 まして、センターテーブルを挟んで、星矢の向かい側の肘掛け椅子で静かにしている紫龍の存在など、無も同然である。 まっすぐに瞬の許に向かった氷河は、瞬の前のテーブルに箱を一つ置いた。 縦横20センチ余り、高さ2センチほどの薄桃色の箱には、白色と若草色の2本の細い紐で、ミニチュアローズを模したらしいリボンが掛けられている。 それが何であるのかが、瞬には わからなかった。 わかるはずがない。 わからず――わからないまま 箱を見詰め、瞬きを繰り返すばかりの瞬に代わって、星矢が脇から、 「何だよ、それ」 と、少々拍子抜けした声で尋ねる。 氷河には その声も聞こえていないらしい。 彼は 瞬だけを見詰め、 「おまえに」 と、短く言った。 |