ダムナティオ・メモリアエ――記憶の断罪。
氷河自身は 古代ローマの そんな刑罰に関連付けて考えたことはなかったのだが――瞬が 瞬の師から聞かされていたものと全く同じ内容の話を、氷河も彼の師から聞いていたのだ。
数百年前、過去の聖戦の頃、“氷河”という名の聖闘士が聖域に いたらしい――という話を。
その名は 一枚の紙片に記されているだけで、他の一切の記録が失われている――というのも、瞬が瞬の師から聞いた話と全く同じだった。
過去の“氷河”は、白鳥座の聖闘士か 水瓶座の聖闘士らしかったのだが。

一枚の文書に 名前が残されているだけで、墓もない。
聖闘士なら――平和のために戦って 命を落とした聖闘士なら、聖域の聖闘士の墓場に葬られるはずなのだが――そう言って、カミュは言葉を濁した。
もしたかしら、あの時 彼は、今の瞬と同じように あまり好ましくないことを考えていたのだったかもしれない。

なぜ その聖闘士の存在は 抹消されてしまったのか。
もちろん 氷河も色々な可能性を考えた。
瞬が考えたようなことも――罪を犯して 聖域から追放されたという可能性も。そして、もちろん 自分から聖衣を返上したという可能性も。

“シュン”という名とは異なり、“ヒョウガ”という名は よくある名前ではない。
聖域に残る記録であるから、無論 それが日本語――漢字で記されていたはずはない。
本名なのか通り名なのか、そもそも 音が“ヒョウガ”だったのか、意味が“氷河”だったのかすら わからない“ヒョウガ”。
奇妙な符合、奇妙な合致だとは思ったが、なにしろ 二百数十年も前の記録。
当然、現在の白鳥座の聖闘士とは どんな関わりもない赤の他人の記録である。
カミュも実物を見たことはない――伝聞でしか、その存在を知らないようだった。
だから 氷河は まもなく、二百数十年も前の聖域に存在していた“ヒョウガ”のことを忘れてしまったのである。
カミュに詳しく尋ねることもしなかった。
カミュも それ以上のことは知らないのだろうと思ったし、訊かれたくなさそうに見えたから。

何といっても、残っているのが 紙片一枚だけだというのだ。
聖域は幾度も種々の戦いに巻き込まれてきた。
その戦いの中で失われた資料や文献、あるいは 処分された資料や文献が相当数あっただろうことは 想像に難くない。
記録を作成できる人材がいなかった時代もあったろう。
記録を残す必要を感じない者しかいない時代もあったろう。
墓も、風化する。
聖域の歴史は、戦いの歴史。
常に専任の書記や記録係がいるわけでもなく、そもそも過去の記録というものは断片的にしか残らないものなのだ。
それは聖域だけのことではないし、戦いに関する事柄だけのことでもない。
であればこそ、歴史上の新発見というものもあり得るのである。

たった一枚の紙片に名前が残されているだけの聖闘士が、記録抹消の刑を受けた聖闘士だったとは限らない。
恋人や肉親への思いゆえに聖域を去ったということも あり得なくはないし、聖闘士の資格を得て早々に敵地で命を落としたということも考えられる。
人間を異次元に飛ばすような技を使う聖闘士もいるのだ。
墓を立てることが可能な死に方ができなかった聖闘士も多くいたに違いない。

一枚の紙片に名前が残っているだけの聖闘士は、“シュン”だけではない。“ヒョウガ”という名の聖闘士もいたようだ――と瞬に告げれば、瞬は更に不安を募らせるだろう。
そう考えて、氷河は、自分が知っていることを瞬に知らせることはしなかった。

今、自分たちはアテナを信じている。
彼女の慈愛に満ちた強大な小宇宙を、アテナのものだと感じている。
アテナの聖闘士として、小宇宙が、聖衣が、彼女の小宇宙に惹かれ、共鳴している。
彼女がアテナであることに、疑いを抱いてはいない――疑念を抱くことができない。
城戸沙織に従う聖闘士たちは、自らの小宇宙の判断を信じ、アテナの聖闘士として 正しいことをしようとしているのだ。

彼女のために戦う決意は翻ることはない。
そして、瞬を抱きしめている。
では、過去の聖闘士のことなど、気に掛けても仕方がないではないか。
今は今。
今、それは“どうでもいいこと”なのだ。
過去の聖闘士の去就など、今 こうして 瞬を抱きしめていることの百分の一も重要なことではない。
氷河の心と意識は そう判断し、氷河は、自分の判断を信じて、“どうでもいいこと”を考えるのをやめたのである。
そうして 氷河は、彼にとって“美しい好ましいもの”だけを見詰める彼に戻っていった。






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