テレプシコーラ






一年で いちばん寒い月が終わった。
弥生3月になったからといって、突然 世界が春めいてくるわけではないのだが、様々な場面で、様々な人々に、様々なやり方で、『春がくる』『春がきた』と訴えられ続けていると、人は 本当に そこに春がきたような気になるもの。
空気に まだ冬の匂いが残っている その日、氷河と瞬がナターシャと共に、都内 某フラワーパークシティに繰り出したのは、そこで春ならではのイベントが開催されていたからだった。

劇場型都市空間と銘打たれた大型エンターテインメント施設。
その野外イベント会場に、座高10メートルの巨大なお雛様が 期間限定でお目見えするというニュースに接したナターシャに、
「オヒナサマって なあにー?」
と問われたから。
「お人形を飾って、女の子が元気に育つよう お願いする お祭りだよ」
と瞬に説明されたナターシャが、オヒナサマのお人形を見たいと言い出したからだった。

最初は、置き場所の問題もあるので、大仰な七段飾りや五段飾りは無理でも、お雛様とお内裏様の男女一対の親王飾りくらいは購入してもいいのではないかと考え、三人は人形店に出掛けていったのである。
ところが、店で売られている雛人形は どれもナターシャの お気に召さなかった。
ナターシャは、お内裏様(パパ)とお雛様(マーマ)とお姫様(ナターシャ)がいる雛人形が欲しかったらしい。
親王飾りは、パパとマーマだけがいて、ナターシャがいない。
五段飾りや七段飾りは、参加者が(?)多すぎる。
どれだけ探しても 三人セットの雛人形は見付からず、結局 氷河さんちの雛人形購入計画は ご破算になってしまったのである。
だが、とりあえず、雛祭りの雰囲気だけでも楽しもうということで、氷河と瞬とナターシャは 期間限定の巨大雛人形を見にいくことにしたのだった。

フラワーパークシティの巨大雛人形は、派手な布きれを かぶせられた奈良の大仏と鎌倉の大仏が並んで座っているような異様な代物だったが、その周囲に飾られているピンク色の桃の花は明るく温かく綺麗で、ナターシャは いたく ご機嫌だった。
公園では スタンプラリーが開催されており、園内の5箇所に設けられたスタンプコーナーでは 雛あられや菱餅が無料で配られ、台紙に5つのスタンプを集めると小学生以下の女の子に限り、桃の花を模した特製リボンがプレゼントされる。
スタンプラリーというゲームが初体験だったナターシャは、ゲームのルールと賞品を聞くと 大張り切りで、そのゲームに挑み始めた。
1日限定300個の先着順。
ライバルは、ナターシャと同じ年頃の少女たち。
ナターシャの楽しそうな笑顔に、雛人形購入計画の頓挫を気にしていた氷河と瞬も ひと安心。
ナターシャの初めての雛祭りは、幸先のいいスタートを切ったのである。

が。
その雛祭りイベントには、致命的といっていい運営上の問題が一つあった。
問題というのは ほかでもない。
その日はイベント最終日。
しかも、日本国は まだまだ不況モード。
つまり、雛人形を買わずに雛大仏見物とスタンプラリーで我が子の雛祭りを済ませようと考えた家族連れが異様に多かったのだ。
その日、劇場型都市空間とやらは 大変な人出で、氷河と瞬は、4つ目のスタンプをゲットしたところで、はしゃいで走り回るナターシャの姿を 見事に(?)見失ってしまったのである。

ナターシャが迷子になったのか、むしろ迷子になったのは氷河と瞬の方だったのか、それは何とも言えない。
広い公園。
万一のことを考えてナターシャに持たせておいた携帯のコール音に気付かないのか、ナターシャは電話に出ない(もっとも、コール音に気付いて 電話に出たとしても、ナターシャが自分のいる場所を 氷河たちにわかるように説明できたかどうかは 非常に怪しかったが)。
GPSが示している場所では、ナターシャと似たり寄ったりの背格好の少女たちが大勢 走り回っている。
園内に響く“うれしい ひなまつり”の琴の音は、ずっと 迷子の呼び出し放送とのデュエットを継続中。
結局 氷河と瞬は、二手に分かれて ナターシャの姿を探すことになってしまったのである。
「ナターシャ、どこだ!」
こんなことなら、ナターシャにも小宇宙を燃やすコツを伝授しておけばよかった。
そんな無茶なことを考えながら、氷河はナターシャの姿を求めて、公園内を歩き回っていたのである。

そうこうしているうちに、氷河は 自分が奇妙な場所に入り込んでしまっていることに気付いた。
雛祭りイベントに似つかわしくない恰好をした成人男女が ひしめき合っている場所。
その全員が、ふらふら くねくねと、珍奇な体操をしている。
「何なんだ、こいつらは。不気味な……」
ここでは、迷子の呼び出し放送どころか、“うれしいひなまつり”の琴の音も聞こえてこない。
代わりに、どこかで聞いたことのあるダンスミュージックが鳴り響いていて、その騒々しさは 大いに氷河を不快にしてくれた。

まもなく 氷河は、自分が、いわゆるフラッシュモブの現場に紛れ込んでしまったらしいことに気付き、盛大に舌打ちをすることになったのである。
フラッシュモブなるものが、インターネット上や口コミでの呼びかけに応えて 公共の場に集まった不特定多数の人々が、前触れなく突如としてダンス等のパフォーマンスを行ない、それが終わると即座に解散する行為だということは知っていたが、それが どれほどの規模で、どれほどの時間をかけて行われるものなのかを、氷河は知らなかった。
知っていても、フラッシュモブの参加者たちが 氷河の迷子探しを妨害する障害であることに変わりはなかったろうし、妙に真剣な顔をしたパフォーマーたちは、氷河の迷子探しに力を貸してくれそうになかったので、氷河は あえて彼等に 彼等の予定(?)を尋ねることもしなかったが。

どうやら瞬も、まだナターシャを見付けることはできずにいるらしい。
離れたところから、瞬が妙に慌てた様子で ナターシャのパパに向かって手を振っているのが見えた。
もしかしたら、ナターシャも この傍迷惑なフラッシュモブの群れの中に迷い込んでしまったのではないかと考えて、氷河は、パフォーマーたちの中を歩き回って ナターシャの姿を探し求めたのである。
人の間を縫って、氷河が やっと人混みの中から抜け出したところで、ふいに ぴたりと音楽が止んだ。
どうやら、この上なく傍迷惑なフラッシュモブが やっと終わったらしい。
これで迷子探しの障害物たちは 速やかに解散するだろうと、腹立ちを抑えるために 氷河が溜め息をついた時。
「君、待ちたまえ! 名前は!」

40は過ぎているだろうか。
フラッシュモブの群れの外で このパフォーマンスを見物していたらしいスキンヘッドの男が、どこから持ち出してきたのか拡声器(?)を使って“君”に名を訊いてきた。
氷河は、そのスキンヘッド男が 自分に向かって一直線に突進してきても、彼の言う“君”が自分のことだとは思わなかったのである。
彼を、地上の平和を乱す敵だと思ったわけでもなかった。
ただ、彼が その周囲に漂わせている雰囲気が 自分の雇い主である蘭子に似ていたので、つい逃げ腰になってしまっただけで。

そのスキンヘッド男は、顔の造作自体は 特段 蘭子ママに似ているわけではなかったが、化粧の系統が蘭子ママのそれに そっくりだったのだ。
青系のアイシャドウ、真っ赤な口紅。
これで髪が金髪だったなら、氷河は彼を信号機と見紛っていたかもしれない。
両者にとっては幸いなことに、彼は肝心の髪の毛を持っていなかったので、氷河は彼を信号機と見紛わずに済み、そのスキンヘッド男もまた 氷河に信号機と思われずに済んだ。

とにかく蘭子ママ系統のスキンヘッド男が、途轍もない形相で氷河のいる方に突進してきたのだ。
氷河が反射的に 後方に跳びすさったのは、危険を察知した動物的本能が働いたせいだったかもしれない。
助走なしで、一跳び5メートルほど。しかも後方に。
尋常の人間では考えられない跳躍力に ぎょっとしたように、スキンヘッド男が突進をやめる。
スキンヘッド男に少し遅れて 彼の隣りに駆けつけてきた一人の女が、スキンヘッド男同様、その場に ぽかんとした顔で 立ち止まった。
遅れてきた女の方は、コスプレイヤーか何なのか、異様なまでに派手、かつ極めて奇天烈な服装をしていた。
年齢は30前後――いわゆる“大人”に分類される歳だというのに、上から下まで真っ赤なボンテージファッションという非常識な姿。
しかも、これまた非常識としか言いようのない、鍋の蓋と表したくなるような帽子(らしきもの)を頭の上に載せている。
髪は染めたものではない、くすんだ金髪。
日本人ではない。

彼女は、スキンヘッド男に 何やら興奮気味に話しかけ、スキンヘッド男は 彼女以上に興奮気味に――むしろ殺気立って、
「つ……捕まえろ、その金髪のダンサー!」
と、再び 野太い声で叫んだ。
誰に命じているのかは定かではなかったが、とにかく誰かに命じた。
間違いなく、氷河を指差して。






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