世界的に有名な振付師と 米国の大スターの許に、氷河の写真添付で 半神ダンサーの情報を送りつけたと、蘭子ママから(事後)連絡が入ったのは、その日の夕刻。
氷河が そろそろ自分の仕事場に出勤しようとしていた頃だった。
蘭子ママ曰く、
『あ、もちろん、氷河ちゃんに お店をやめられちゃ困るから、ダンサーへの転職話は断ってね。でも、コレオ・マクレガーとレディGと顔をつないで、できれば 来日のたびに氷河ちゃんの店に来るような関係は築いてほしいわけ。コレオ・マクレガーとレディGのお気に入りのバーってことになれば、お店に箔がつくでしょ」

「ママ!」
氷河の携帯のディスプレイには、毎回テレビ電話の機能を使う蘭子ママの顔が どアップで映し出されている。
小さなディスプレイいっぱいに広がった蘭子ママの顔は、氷河の非難の声にも 全く動じた様子を見せなかった。
「明日、開店前にコレオ・マクレガーとレディGが お店の方に行くと思うわ。自宅の住所は無断で教えるわけにはいかないから、教えたのはお店の名前と住所だけ。適当にお酒を飲ませて、写真を撮って、色紙にサインでも書いてもらって、お帰り願ってちょうだい。二人の誘いに乗っちゃ駄目よ。氷河ちゃんの顔が見られなくなったら、あたしが寂しいから。ダンサー勧誘は うまく断わってネ」
「……で、情報提供料はママの懐に入るというわけですか」
「務め先を知らせただけだから、満額はもらえないでしょうけど、ヤキソバとヤキイモを たらふく食べる予定よお」

『どうして そんな面倒事を 招き入れるようなことをしてくれるのだ!』
と氷河が怒声を張り上げようとした時には もう、蘭子からの電話は切れていた。
今日の仕事はこれからだというのに、すっかり 疲れきって、氷河はリビングのソファに沈み込んでしまったのである。
「アテナといい、蘭子ママといい、俺は 雇い主に恵まれていない……」
正義の味方にも、上司への不満を口にすることくらいは許されるだろう。
氷河の脇で、ナターシャと一緒に、氷河と蘭子ママのやりとりを聞いていた瞬が 困ったような笑みを浮かべる。

「蘭子さんは、随分 氷河の我儘をきいてくれて、融通をきかせてくれてると思うけど。育児休暇も 自由に いっぱい取らせてくれるし」
「だからといって、そんな密告をすることはないだろう! 俺はアテナの聖闘士で、正義の味方の仕事があるんだ! 蘭子ママは、うまく断われと軽く言ってくれるが、それができたら苦労はない。だいいち、自分の店の従業員をヤキイモとヤキソバのために売るなんて、雇用主にあるまじき振舞いだ!」
己れの職業選択を悔やみ 頭を抱え込んだ氷河の上に、瞬の腕に抱きかかえられていたナターシャから、
「パパ。ナターシャもヤキイモ食ベタイー。“パパといっしょにレッツお遊戯”に出タイヨー」
という、無邪気な おねだりが降ってくる。

「瞬、どうにかしてくれっ!」
水瓶座の黄金聖闘士 アクエリアスの氷河の雄叫び。
悲鳴じみた声で 瞬に泣きつく様を見る限り、到底 信じ難いことだったが、彼は この地上で最も強い男(の一人)のはずだった。
その彼をもってしても、人生を生き抜くことは 全く容易な事業ではないのだ。
受け入れ難きを受け入れ、必要不可欠なものを手に入れずに済ませ、耐え難きを耐えさえすれば、人生を生きることは さほど困難なものではない――と言ったのは誰だったか。
平凡な幸福が欲しいだけの男の人生が、なぜ こんなにも波乱と試練に満ち満ちているのか。

今日一日の仕事に取りかかる前から、すっかり疲れ切っている この地上で最も強い男(の一人)を、瞬が嘆息混じりに見詰めていた。






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