凍気。 しかも、速い。 瞬は 自らの小宇宙で、その凍気が氷河の身体に到達するのを防いだ。 「さすがは伝説の聖闘士」 全く無感動に、青年が言う。 「今の凍気、おそらく絶対零度に達していたよ」 「……」 倒さなければならない敵もいないのに 聖闘士の力を示しても何の益もない――という氷河の考えは誤っていた。 少なくとも 彼は、そうすることで、彼が聖闘士の称号を得るに足る力を備えていることを 氷河たちに証明できた。 彼が はったりを言っているのでも、妄想を語っているのでもないことを、瞬と氷河に知らしめることはできたのだ。 そうできたことを確信し、彼が彼の言葉を続ける。 「俺は、詳細を知らせるわけにはいかないが、まあ、未来から来たのだと思ってくれればいい。おまえたちが伝説になっている未来から」 「何のために……」 まさか、伝説の聖闘士を倒すため――ではないだろう。 未来から来たという彼の申告が事実なら、伝説の聖闘士を倒すことは――歴史を変えることは――彼自身の存在を無にする危険をさえ、はらんでいる。 その理屈は彼も わかっているらしい。 伝説の聖闘士を倒すために来たのだ――とは、彼は言わなかった。 「さあ……」 と、彼は、またしても答えになっていない答えを返してきた。 「俺は完璧だ。少なくとも、おまえたちより優れている。俺の時代、俺の世界にも、俺以上の力を持つ聖闘士はいない。地上の平和を脅かす者が現れても、俺は 容易に撃退することができる。だが、それが何になるというんだ? 何にもならない。俺は生きていることが詰まらない」 「詰まらないだなんて……。アテナの聖闘士が存在する理由は――アテナの聖闘士が望むことは、何よりもまず地上の平和が保たれること。そのために寄与できているのなら、アテナの聖闘士として、それ以上の喜びも幸福もないでしょう」 彼の言うこと、彼の考え、彼の感情が、瞬には全く理解できなかった。 地上の平和を守るという、困難で崇高なアテナの聖闘士の務めを果たすことができている聖闘士が、それを『詰まらない』と感じているとは。 そんな彼を、どう理解しろというのか。 しかし、彼は、本当に それを“詰まらない”と感じているらしい。 そうなのだと、彼は言い張った。 「おまえたちの伝説は、おまえたちの生きていた時代こそが 聖域が最も輝いていた時代だと言い張る。俺より劣る力をしか持たないはずの おまえたちは、伝説の中で輝いている。そして、おまえたちは、おまえたちの伝説を語る者たちの瞳までを希望の光で輝かせる。俺は 別に、おまえたちのように伝説になりたいわけじゃない。ただ、俺とおまえたちとでは何が違うのかを知りたいんだ。おまえたちは なぜ輝いているのか。何が楽しいのか。自分が生きていることを、実際に楽しいと考えているのか。それを確かめたくて、クロノスに、伝説の聖闘士たちが生きていた時代に――この時代 この世界に、俺を運ばせた」 「クロノス?」 完璧を自負する この青年が 本来生きている時間が、“今”より どれほど先の未来なのかは知らないが――教えてもらえないようだったが――あの 気まぐれで酔狂な時の神は 相変わらず そんなことをして、永遠に続く退屈を紛らせているらしい。 瞬は我知らず嘆息してしまった。 「伝説の聖闘士たちは、さぞや 研ぎ澄まされた空気、張り詰めた緊張の中で、価値ある時を過ごしているのだろうと期待して、俺は この世界にやってきたんだ。だというのに、おまえたちは のんきに子供と遊んでいる。まったく……」 氷河の腕に抱きかかえられているナターシャを見やり、未来からやってきたという聖闘士は、言葉を濁した。 『まったく……』のあとに 聞いて楽しい言葉は続かないだろうことを察知したらしいナターシャが、少し不満そうに 軽く唇を引き結ぶ。 未来からやってきた聖闘士は、いたいけな少女の心の揺らめきなど 意に介した様子も見せなかったが。 アテナの聖闘士になりながら、聖闘士であることを詰まらないと言ってのける謎の青年。 生きていることを楽しいと思える人間になりたくて、彼は この時代、この世界にやってきたのだろうか。 どう対処したものかと 瞬は迷い、とりあえず、今更ながらではあったが、彼に彼の名を訊いてみたのである。 「君、名前は?」 「名前? そうだな、ウティスとでも」 「ふざけるな。いや、自虐か?」 生きていることが詰まらないなら、それは当人のせいである。 彼は、自分で自分の人生を詰まらないものにしているのだ。 そんな愚か者の相手を真面目にする気にはなれない。 氷河は、そういう口調だった。 ナターシャが、機嫌が悪いらしいパパではなくマーマに、氷河の不機嫌の理由を尋ねる。 「マーマ。ウティスって、変な名前なの?」 「ちょっと変かもしれないね。ウティスっていうのは、“誰でもない”っていう意味なの。お兄ちゃんは、僕たちに 本当の名前を言いたくないのかな」 「んー」 本当の名前を名乗りたくない人間がどういう人間なのか、ナターシャには想像もつかなかったらしい。 ナターシャが、その可愛らしい顔をしかめる。 そして 彼女は、“わからない話”を継続することを早々にやめてしまった。 代わりに、楽しい話を始める。 「ナターシャの名前は、パパのマーマの名前とおんなじなんだよね」 「そうだよ。元々はラテン語のナタリス――“誕生”という意味の言葉。ナターシャちゃんの名前は、“生まれてきてくれて、ありがとう”っていう意味だよ。ありがとう、ナターシャちゃん」 瞬に『ありがとう』と言われたナターシャが、嬉しそうな笑顔になる。 人は そんなことで嬉しい気持ちになれるのに、そんな簡単なことができないらしい“誰でもない”聖闘士に、瞬は少々 同情の念を抱いてしまったのである。 地上世界の平和を守るために戦うことを“詰まらない”と感じるらしい聖闘士。 そんな聖闘士は いてはならないと、瞬は思った。 「君は、どれくらい この時代にいられるの?」 「3日」 クロノスの時間制限は、時代が変わっても同じらしい。 瞬は溜め息を重ねた。 「まさかクロノスが この時代のお金まで用意してくれたはずはないよね。ホテルに部屋をとることもできないだろうから――君を僕たちの家に招待するよ。大層な おもてなしを期待されても困るけど」 「お兄ちゃん、ナターシャのおうちに お泊まりー?」 自称 完璧な聖闘士を 新しい遊び相手と思っているのか、ナターシャが嬉しそうに瞳を輝かせ、氷河は ますます不機嫌そうな顔になった。 瞬は、そして、その段になって初めて、ウティスと名乗った青年が奇妙なのは、彼自身――その考え方だけだということに気付いたのである。 彼は、もちろん聖衣を身にまとってはいなかったが、着衣は 全く“奇妙”ではなかったのだ。 濃紺のYシャツと、同色のパンツ。 型も生地も この時代のそれと大差はなく、どこにも未来的なものはない。 髪型も、氷河の髪を そのまま黒髪にしたような――氷河のそれを“普通”と言ってしまっていいのかどうかは怪しいが――氷河レベルには普通である。 彼は本当に未来から来たのだろうかと、瞬は 根本的な疑念を抱いてしまったのである。 彼が一般市民でないことは、疑いようもない事実だったが。 「おまえたちの世話になる気はない。俺は どこでも寝られるし、3日間くらいなら、眠らなくても平気だ」 遠慮などという殊勝な気持ちからではないだろうが、彼は――ウティスは――瞬の招待を遠慮した。 瞬は その遠慮を許すつもりはなかったが。 光速拳を撃つことも絶対零度の凍気を生むこともでき、気流や嵐を自在に操ることも 敵対者を異次元に飛ばすこともできるらしい人間を、(彼にとっての)異世界に 監視なしで置くのは危険である。 その上、彼は 謎が多すぎるのだ。放置できない。 「でも、せっかく来たんだから、この時代の生活を経験するのも面白いかもしれないでしょう? 旅行した時には、旅行先の景色を見て、美味しいものを食べて、文化に触れて、知見を広げなきゃ。僕たちの家に来てくれたら、僕たち以外の伝説の聖闘士も紹介してあげるよ」 「……」 彼は、美味しいものを食べたいと思ったわけではなかっただろう。 だが、自分の中の“詰まらない”気持ちを消し去ることが 彼の時間旅行の目的なのだとしたら、その目的を果たすために いったいどんな方法があるというのか。 そのための いかなる方法も、彼には思いつけなかったに違いない。 おそらく、瞬の招待に応じることが 他の伝説の聖闘士たちに労せずに会う最良の道だという判断も働いて、最終的に 彼は瞬の提案を受け入れた。 氷河は彼を自宅に招じ入れるのは不本意そうだったが、彼を野放しにするのも危険だと考えたようで、結局 瞬の提案に賛同。 ナターシャは、新奇な お客様に 浮かれていた。 |