ナターシャは、“特に嫌いになる理由がないから”ではなく、本当に、積極的に、ウティスが好きらしい。 翌朝、瞬が朝食の支度(の支度)を始めると、ナターシャは、 「ナターシャ、お兄ちゃんを 呼んできてアゲルー」 と言って、同じマンションの別階にある瞬の部屋に張り切って駆けていった。 ナターシャに関しては、超の字がつくほど過保護な氷河が ナターシャを引きとめないということは、彼が ウティスを“幼い子供に危害を加えるような人間ではない”と考えているということ。 瞬も同じ考えだったので――というより、瞬も そう感じていたので――氷河がそうであることに、瞬は心を安んじた。 もっとも、ナターシャが一人でウティスの許に行くことを 氷河が許したのは、アテナの聖闘士であるウティスを彼が信じていたせいもあったろうが、それ以上に、瞬に(少々 熱烈な)『おはよう』のキスをするためだったらしい。 「未来の人だって、僕たちと同じものを食べられるよねぇ?」 氷河に尋ねても正答は得れないことを尋ねた瞬の手から、氷河はオレンジの実を奪い取った。 「おまえが俺以外の男のことを考えていると、俺は気分と機嫌が悪くなるんだ。知っているだろう」 「知ってるけど、彼はとくべ――今は特別だよ。ある意味、今は異常事態で非常事態だから」 氷河には、昔から、焼きもちを焼くことは 恋する男の礼儀で義務だと考えている節があった。 それは誤った考えだと 瞬は思っていたし、氷河にも幾度も そう訴えたのだが、氷河は一向に自身の考えを改める気配を見せなかった。 そうするうちに 瞬も、氷河の誤った考えを正すより、氷河のキスを受け入れて 彼の機嫌を直す方が楽だということを悟り、いつのまにか楽な方に流れてしまったのである。 氷河の前に立ち、目を閉じる。 氷河の唇が 瞬の唇に下りてきて、氷河の機嫌が徐々によくなっていくのを、瞬は彼の小宇宙の変化で感じ取ることができた。 そうして 氷河の機嫌が十分によくなったのを確信した瞬が目を開けた時、瞬は、ナターシャのパパとマーマの朝の慣例の儀式を、“誰でもない”青年が 不思議なものを見るような目をして見詰めていることに気付いたのである。 「わああああっ !! 」 気配を消すことのできる(気配を悟らせない)人間の小宇宙を感じられないということは、何と不便なことか。 地上の平和を守るために戦うことを生業とするアテナの聖闘士同士(しかも同性同士)が、朝から、一般家庭のダイニングキッチンで、到底 ソフトとはいえないキスを交わしている場面を目撃したアテナの聖闘士は、その状況を どう思うのか。 ウティスの気持ちが皆目 見当がつかなくて、瞬は その場で心身を硬直させたのである。 氷河は、ウティスの小宇宙ではなく、ナターシャの気配で、二人が そこに立っていることに気付いていたらしい。 というより、氷河の目的は、今日に限っては、瞬と『おはよう』のキスを交わすことではなく、その場面をウティスに見せることだったらしい。 心身を硬直させている瞬とは対照的に、氷河は慌てた様子一つ見せなかった。 「アクエリアスの小宇宙が変わった……温かく。こんなことで――」 小宇宙を持たない聖闘士には、同性の聖闘士同士のキスシーンより、氷河の小宇宙の変化の方が 驚くべきことだったらしい。 「パパとマーマは とってもナカヨシなのー。パパとナターシャも、マーマとナターシャもナカヨシダヨー」 「ナカヨシ……」 ウティスは、ナターシャの説明で納得してくれるのかどうか。 納得するにしても、どう納得するというのか。 氷河とナターシャの動じなさに、瞬は 軽い目眩いを覚えてしまったのである。 「た……卵料理は何が……目玉焼きとスクランブルエッグ、オムレツもできるけど――」 場をごまかすために瞬がウティスに尋ねると、尋ねられたウティスより先に氷河が、 「俺はおまえが食いたい」 と答えてくる。 それは どう考えても、(瞬に対する)既得権を誇示して ウティスを牽制するための言葉で、瞬は、氷河が なぜそんなことをするのかが――なぜ そんなことをする必要があると考えたのかが――わからなかった。 というより、無意味無益無駄と感じた。 当然 瞬は、氷河の言葉をきっぱり無視したのである。 「僕はウティスに訊いているんです。ウティスは何が食べたい?」 ウティスの生きる未来にも、目玉焼きやオムレツはあるのか。 それがどういうものなのかを ウティスは知っているのか――。 氷河の たわ言を無視して ウティスに問うてから、瞬は、その根本的な問題に気付いたのだが、ウティスの答えは 無難でありながら、瞬の懸念を払拭する、実に見事なものだった。 彼は、 「アクエリアスと同じものでいい」 と答えてきたのだ。 「貴っ様ー !! 」 自分と同じオーダーをしたウティスに、氷河が激怒する。 ウティスが自覚しているかどうかは ともかくとして、実に鮮やかな切り返し。 氷河の激昂に、瞬は つい吹き出してしまったのだった。 「彼、ユーモアのセンスはあるみたい」 「ユーモアだとっ !? 」 氷河にしてみれば、年下のヒヨコに揚げ足を取られたようなもの。 いきり立つ気持ちは わからないでもないが、ウティスは やはり自分の発言が一種の意趣返しになっていることには気付いていないようで、氷河の立腹は空回りになっている。 それが愉快で――瞬は あらぬ場面をウティスに診られてしまった気まずさを 忘れることができたのである。 ナターシャのオーダーは、“目玉の二つある目玉焼きにお砂糖をかけて”だった。 |