ここではなく、今ではない どこかで、ウティスはなぜか聖闘士になったらしかった。
「なぜかは わからない。なりたくて なったわけじゃない。ただ、なっていたんだ。ならなければならないと、誰かに言われたような気もする」
それが 運命という奴だったのかもしれない――と、ウティスは、確信は なさそうに呟いた。
運命がなれというから、聖闘士になった。
他に しなければならないこともなかったから、様々の技を覚え、それにつれて小宇宙の力は強大になっていった。
敵が現れた時には 戦い倒しもしたが、それは それだけのこと。
持て余すほどの強大な力で、自分は何をすべきなのか――何をするために存在するのかが わからなかった。
ウティスは、そう言った。真顔で。

小宇宙の力で地上の平和を乱す敵を倒しながら、『何をすればいいのかが わからなかった』と言うウティス。
つまり 彼は、戦って敵を倒すことはしたが、それを“地上の平和を守るため”だと思っていなかったのだろう。
でなければ、彼は、“地上の平和を守ること”に いかなる価値も意義も見い出せていなかったのだ。
十中八九、その世界に 彼の愛する人がいなかったから。
そんなウティスの様子を見兼ねて、彼が望んだわけでもないのに、彼のアテナはクロノスと計り、ウティスを違う世界に飛ばしたらしい。

彼が最初に飛んだのは、自分と同じ名の聖闘士が伝説になっている時代だった。
その世界の“氷河”は、いつも彼の仲間たちと共に語られる存在で、そんな仲間たちを持ったことのなかった彼は、そこが自分の生きていた世界とは別世界の、しかも未来だと気付いたのだそうだった。
そして、自分と同じ名の聖闘士が生きている時代に行き、自分と同じ名の聖闘士が生きている世界を見ることができたなら、何かが わかるのだろうかと思った。
そう思った次の瞬間には この世界に来ていて、ここで 彼は大人になった(異世界の)自分自身を見たらしい。
その“氷河”は生気に輝いていて、俺は自分が 夢か幻想を見せられているのかと思った――と、ウティスは瞬たちに言った。

“氷河”と“誰でもない氷河”を分けるもの。
二人を 全く別の生き物にしているもの。
それが何であるのかを――。
「それが何なのか、今では 俺もわかっている」
孤独で 仲間のいない氷河は、“寂しそうに” そう言った。
仲間や家族と共にいる自分を見て、ウティスは感情を生む術を学んだのだろうか。

瞬が彼を抱きしめたのは――抱きしめずにいられなかったのは、自然で 当然のことだったのかもしれない。
彼は“氷河”で、しかも 彼は孤独なのだ。
“氷河”と“誰でもなかった氷河”の小宇宙が 同時に燃え上がる。
“氷河”の小宇宙は怒りで、“誰でもなかった氷河”の小宇宙は 別の何かで。
いい歳をした大人の身で 10代の子供のように焼きもちを焼く氷河は、それでも 一応 いい歳をした大人なので――かろうじて 怒りを小宇宙の内に閉じ込めきり、若く孤独な氷河に殴りかかることまではしなかった。

「君の世界で――君は つらいの? 悲しいの? 寂しいの?」
瞬の腕の中で、無感触だったウティス――異世界の氷河の小宇宙が 青味を帯びる。
それは冷たい青ではなく、空の青だった。
「ああ、これは、確かに……若い頃の氷河の小宇宙に似ている」
低く、そう呟いたのは紫龍だった。

「瞬や おまえ等に会えないと、俺は こんなものになるのか」
怒りと嫉妬を拳や凍気に載せることは かろうじて抑えきったが、その分 言葉の抑制が弱まってしまったのか、氷河がウティスを“こんなもの”呼ばわりする。
否、それは もしかしたら自虐だったのかもしれない。
いずれにしても、氷河の“こんなもの”呼ばわりのせいで、ウティスを抱きしめる瞬の腕には 更に力が込められた(氷河は、自分の迂闊で自分の首を絞めた)。

「まだ出会えていないだけだよ、きっと。僕たちは いつか必ず巡り会える――と思う」
断言できないことが心苦しい。
“誰でもない”ウティスは、だが、“氷河”になりつつあった。
彼は、安請け合いができない瞬の苦衷を察してくれた。
「俺は、俺の瞬を探せばいいんだとわかった。たとえ 探し出せなくても、探し出すという目的があれば、俺は これまでより ちゃんと生きていくことができるだろう。俺は、俺の瞬がいるはずの世界を守らなければならないしな」

幸せも、夢も、希望も――人は、それを実現する必要はないのかもしれない。
ただ それが どんなものなのかを思い描くことさえできれば、人は幸福になることができ、夢や希望と共に在ることができるのだ。
ウティスの世界のアテナは、ウティスのために、こんな荒療治をしたに違いない。

ウティスはもう“誰でもないもの”ではなくなるだろう。
安堵の胸を撫で下ろして、瞬は 彼の背にまわしていた腕を解いたのである。
そして、何者かになりつつある氷河が、10代の頃の氷河と同じ目で 自分を見詰めていることに気付いた。
熱っぽく切なげで、言葉にしたい思いを言葉にできずに焦れているような。

「ウティス……氷河?」
ウティスだった者が、少し悔しそうに唇の端を上げる。
「こんなことだろうとは思っていたんだが、3日間の期限は、最初に飛んだ未来で過ごした時間込みらしい。戻る時間がきたようだ」
「そんな……」
まだ1日 一緒にいられると思い込んでいた瞬の唇に、ウティスだった氷河の唇が下りてくる。
氷河は 即座に光速でウティスだった男に殴りかかっていったのだが、その瞬間にタイムオーバー。
ウティスだった者の姿は消えていて、氷河の拳は 空しく空を切った。

時間を計っていたとしか思えないタイミングのよさ。
怒りのぶつけどころを見失って ぎりぎりと歯噛みをすることになった氷河を見やりながら、星矢と紫龍は異世界の氷河の手際のよさに感心していた。
「間違いなく氷河だなー。どこの世界にいても、氷河は氷河だ」
「悪知恵の働く男だ。あれなら、大丈夫だろう」
消えてしまった異世界の自分自身の代わりに、そんなことを他人事のように語る星矢と紫龍で、せめてもの鬱憤晴らしを。
そうしなければ、腹の虫が治まらない――と考えた氷河が その計画を実行に移せなかったのは、ナターシャが、
「お兄ちゃん、消えちゃったー」
と言って、泣きそうな顔になったからだった。

ナターシャが お嫁さんになる予定だった人が、忽然と その姿を消してしまったのだ。
ナターシャが泣きそうな顔になるのも当然のこと。
氷河は、慌てて 小さなナターシャを 抱き上げた。
「ナ……ナターシャ。ナターシャはまだ小さいから、これから もっとたくさんの人に出会うんだ。世の中には、あんなのより いい男が幾らでもいる」
ナターシャを慰め なだめるためとはいえ、自分より いい男は幾らでもいると言い募らなければならない氷河の心情は、いかばかりか。

だが、氷河のその言葉は 決して おざなりの慰めではなく、確かな事実――真実だった。
幼いナターシャには――まだ若かった異世界の氷河にも――その前途には たくさんの出会いがある。
彼等は、これから 多くの出会いを出会うだろう。
そして、その出会いによって、彼等は大人になっていくのだ。
その出会いが 彼等を幸せに導くものであるようにと、“誰でもなかった氷河”の消えた世界で、大人たちは願ったのである。

おそらく大丈夫だろうと、この時代の黄金聖闘士たちは思っていた。
異世界の若き氷河は、この世界を去る最後の瞬間に、確かに笑っていたから。






Fin.






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