冥界には青い空はありません。
明るい太陽の光もありません。
冥界の空は灰色の空。
陽光の代わりに薄闇が漂っています。
そんなところでは、人の気持ちや気分は暗く沈んでいくもの。
瞬は、けれど、勇気と気力を奮い起こしました。
そうして、その勇気と一緒に、『この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ』と記されている地獄の門をくぐり、瞬は死者の国に入っていったのです。


冥府の王ハーデスの許に向かう瞬の行く手を 最初に遮ったのは、死者の魂を冥界へと誘うアケローン河。
そこには渡し守のカロンがいて、死者の魂を乗せた小さな船で 海のように広い河を行ったり来たりしていました。
瞬は、彼に、僕を向こう岸に渡してくださいと、丁寧に頼みました。
けれど、カロンは、
「おまえは 生きてるじゃないか」
と言って、瞬の願いを聞き入れるのを渋る素振り。

ここで追い返されてしまったら 王妃様を生き返らせることができませんから、瞬は重ねて熱心に頼みましたよ。
「どうしても 生き返ってほしい人がいるので、僕の命と引き換えに その人を生き返らせてくださいと、冥府の王にお願いしに行くんです。お願いします」
「生きてるのに冥界に行きたいなんて、おまえは馬鹿か。この河の先にあるのは、罪人を罰する地獄だぞ。なんでそんなことをするんだ」
「その人が死んだことを悲しんで、生きる気力を失っている人がいるんです。僕は その人に元気になってもらいたいんです」
「それで おまえが死んだら、何にもならないじゃないか」
「それで大切な人が幸せになってくれたなら、僕は とても嬉しい。何にもならないなんてことはないでしょう」
「……」

瞬の訴えを聞いて、カロンは とても変ちくりんに顔を歪めました。
瞬の言うことが まるで理解できないというように。
もしかしたら、カロンには“大切な人”が一人もいなくて、だから 瞬の気持ちが理解できなかったのかもしれません。
氷河王子に王妃様。
大切な人がいなかったら、瞬も カロンと同じように、自分が死んでしまったら何にもならない、自分が死んでしまったら 何もかもが終わり――と考える人間になっていたかもしれません。

“生きていること”“死んでいないこと”が“幸せ”なのであれば、瞬は 今、不幸になるために 冥府の王の許に向かっていることになります。
“生きていること”“死んでいないこと”が“幸せ”なのであれば、自分の命をかけてもいいと思えるほど大切な人が一人もいないカロンの方が 幸せな人間なのかもしれません。
それでも 瞬は、氷河王子が元の元気な王子様になってくれるのなら、たとえ自分の命が失われることになっても、自分は自分を幸せな人間だと思うことができるに違いないと確信していました。
では、“幸せ”とは、必ずしも“生きていること”と同義ではないのでしょう。
少なくとも瞬にとっては そうでした。
氷河王子の元気で明るい笑顔こそが、瞬の幸せ。
瞬は、自分が幸せになるために、自分の死に向かっていたのです。

「たとえ生きている人間でも、清らかで澄んだ目をした人間なら、河を渡してやってもいいと、俺はハーデス様に命じられているんだ。ハーデス様は、綺麗な人間が大好きだからな」
瞬がしようとしていることに合点はいっていないようでしたが、カロンは そう言って、瞬をアケローン河の向こう岸に渡してくれました。
「どうも ありがとうございます」
大切な人のいないカロンに お礼を言って、瞬は 薄闇の冥界を先に進んだのです。


次に瞬の行く手を遮ったのは、冥界の裁きの館。
裁きの館は、そこを訪れた者を威圧するように 大きくて立派な建物でした。
裁きの館の法廷には ルネという裁判官がいて、彼は 冥界の法にのっとった裁きを受けていない人間を 先に進ませることはできないと、瞬に言いました。

「ここは、死者が生きていた時に犯した罪を吟味し 裁く場所。その後、その者が、冥界のどこに行くのかを決める法廷だ。ここでの裁きを受けてからでないと、おまえも 広い冥界の どこに行けばいいのかが わからないだろう」
「僕は、どうしても 生き返ってほしい人がいるので、僕の命と引き換えに その人を生き返らせてくださいと、冥府の王にお願いに行きたいんです。あなたの裁きは そのあとにしていただけませんか。冥府の王に会って、王妃様を生き返らせてもらえたあとなら、炎の地獄にでも 氷の地獄にでも喜んで行きますから」
「君の命と引き換えに? では、君は生きているのか」
「はい」
「生きていても、規則を曲げるわけにはいかぬな」

冥界の裁きの館の裁判官は、どうやら 何よりも規則を重んじる人間のようでした。
アケローン河の渡し守カロン同様、自分の命や規則より 大切な人の幸福の方が大事な瞬の気持ちがわからない人のようです。
彼は とても大きくて重そうな本を抱えていて、その中の とあるページを一読し、それから ゆっくりと顔を上げました。
「まだ死んでいない君のページは まだ最後まで記されていないが、君は 愛してはならない者を愛しているようだな」
「僕は……」
ルネに そう言われて、瞬は 悲しい気持ちになったのです。
“愛してはならない者”
それが冥界のルール、冥界の判断なのかと。

「僕が愛しているのは、愛してはならない人なんですか? それは 誰が決めたこと?」
「誰が決めたのかということは問題ではない。それが、世界の決まりなのだ。君は世界の決まりを破っている」
人間の心より、その幸福より、世界の決まりの方が大切らしいルネは、そう言って 瞬を責めました。
君は 愛する人を間違っている――と。
愛する人を間違えるくらいなら、誰も愛さない方がいい。
そうすれば、人は罪を犯さずに済むから。
ルネは、瞬に そう言いました。
そうすれば、愛してはならぬ者を愛した者が落とされる地獄に送られずに済むから。
それが ルネの考えのようでした。

けれど、瞬は 氷河王子を愛していましたし、そのことを幸福なことだと思いこそすれ、悔やむ気持ちは全くありませんでした。
そして、氷河王子の元気で明るい笑顔のためになら、どんな地獄に落とされても 自分は幸福な人間だと思っていられると、確信していたのです。

「実に奇妙なことだ。重大な罪を犯しているのに、君の魂は 誰の魂より清らかだ。……だが、とにかく、たとえ生きている人間でも、清らかで澄んだ目をした人間なら、この館を通してやってもいいというのが、ハーデス様のご指示。この館の先に進むことは許してやろう。ハーデス様は、綺麗な人間が大好きなのだ」
ルネが得心していないのは、瞬が冥界にやってきた理由や その言動なのか、それとも 冥府の王ハーデスの嗜好なのか。
それは 瞬には わからなかったのですが、ルネは 瞬が先に進むことを許してくれました。


次に、瞬の行く手を遮ったのは綺麗なお花畑。
いいえ、そのお花畑は、瞬の前進を妨げるようなことはしませんでした。
瞬は、自分の意思で 足を止めたのです。
そこでは 一人の青年が竪琴を奏でていて、彼が紡ぎ出す美しい楽の音のせいで、瞬は そのお花畑を素通りしてしまうことができなかったのでした。
竪琴を弾いている青年の側には、胸から下が石になった美しい女性がいて、青年は彼女のために竪琴を奏でているようでした。
瞬の姿に気付くと、彼は、なぜ死んでいない自分が ここで竪琴を奏しているのかを、瞬に語ってくれたのです。

彼の名はオルフェ。
彼は 竪琴の名手で、そして、恋人のユリティースを深く強く愛していました。
けれど、そのユリティースが毒蛇に咬まれて死んでしまったのです。
彼は、冥界にやってきて、ハーデスに彼女を生き返らせて欲しいと懇願しました。
彼の奏でる楽の音に心を動かされたハーデスは、冥界から地上に着くまで決して後ろを振り返らないという条件をつけて、彼の願いを聞き入れてくれました。
けれど、オルフェは、地上まで あと一歩というところで 後ろを振り返ってしまい、彼女を生き返らせることに失敗してしまったのです。
それ以来 オルフェは、冥界でユリティースのために竪琴を奏で続けている――のだそうでした。

オルフェは、彼同様 生きている瞬がハーデスの許に向かっている理由を聞くと、とても悲しそうにかぶりを横に振りました。
「君がしようとしていることは――死んだ者を生き返らせようとするのは、命のことわりに背くことだ。世界の理に背けば、人は不幸になる」
瞬がしようとしていることは、かつてオルフェがしようとしたこと。
そして、オルフェは、その目的を果たすことができなかった。
彼は、カロンのように 愛する人がいないわけではなく、瞬のように 愛してはならない(とされている)人を愛してしまったのでもないようでした。
自分は 愛し方を間違えてしまった。
オルフェは そう考えているようでした。
そして、自分のしようとしたことを 悔いているようでした。

「僕には、命の理より 愛の理の方が強くて絶対なんです」
瞬は、オルフェに訴えました。
自分のしようとしていることが間違っているのだとしても、自分は そうせずにはいられないのだと。
オルフェは、やはり悲しそうに、今度は縦に首を振りました。
「そうだな。僕もそうだった。死んだ者を生き返らせようとした。それが間違いだったということは、今では 僕もわかっているんだ。たとえ ユリティースが死んでしまっても、彼女を愛し続けることはできたのに、僕は そうしなかった。だが、間違っていても、愛する者と共に在りたいという気持ちは変えられない」
オルフェが悔いているのは、ユリティースを愛する方法を間違ってしまったこと。
今も その間違いを正すことができず、生きながら彼女の側に留まり続けていること。
彼は、ユリティースを愛したこと自体は、悔いていないようでした。

「君は、かつての僕とは違って、愛する者の幸福のために、愛する者との別れを覚悟しているようだな」
ならば、僕とは違う道が開けるかもしれない。
オルフェは、瞬に そう呟き、『ハーデスの許に行ってみるがいい』と言ってくれました。
「ハーデスは、自分の欲しいものは必ず手に入れようとする男だ。決して 油断しないように。もうすぐそこ。ジュデッカに、ハーデスはいるだろう」
と。






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